~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『日 本 国 紀 (上)』 ==

著 者:百 田 尚 樹
発 行 所:幻 冬 舎 文 庫
 
 
 
 
 
花開く元禄文化
戦国時代から江戸時代初期までの日本は、世界有数の金銀の産出国でした。その豊かな財力で江戸の町の整備にとぞまらず、全国の主要な街道と河川の 普請 ふしん などの公共工事が盛んに行なわれています。しかし江戸初期に金と銀の産出量のピークが過ぎ、また前述の「明暦の大火」での江戸城の再建や町の復興などによる支出のせいで、中期以降は財政が苦しくなりました。そこで幕府は元禄八年(一六九五)、貨幣の金銀含有量を減らす 改鋳 かいちゅう に踏み切ります。
「悪貨が良貨を駆逐する」というグレシャムの法則で知られるように、金の眼龍量を減らす改鋳は、貨幣の価値を金で決める「金本位制」の下では良くないこととされていました。しかしこの時、改鋳前の一両と改鋳後の一両の貨幣としての価値が変わらないまま、むしろ市中に多くの貨幣が出回ったため、インフレにはなったものの景気は良くなったのです。これは現代の経済用語で言えば、「金融緩和政策」です。つまりこの元禄の改鋳は見方を変えれば、江戸時代の日本が世界に先駆けて近代的な管理通貨制度を採用した画期的な出来事だったともいえるのです(ただし完全ではない)
この好景気を背景にして、様々な娯楽や文化が生まれました。いわつる「元禄文化」と呼ばれるものです。貨幣経済のさらなる進展と経済成長により、生活に余裕の出来た庶民が多くの文化を享受するようになりました。江戸時代を代表する元禄・化政という二つの文化のうち、元禄文化が上方を中心に栄えたのも、経済の先進地であったことが理由です。
浮世草紙 うきよぞうし 」と呼ばれる小説が流行り(代表作に井原西鶴の『好色一代男』『好色一代女』『日本永代蔵』など)、また人形浄瑠璃も人気を博しました(代表作に 近松門左衛門 ちかまつもんざえもん の『曽根崎心中』『 心中天網島 しんじゅうてんのあみじま 』など)。西鶴の小説は、庶民の欲望を生き生きと描いたものですが、一方、近松の作品は、社会の制約によって悲劇的な最期を遂げる庶民の姿を描いています。いずれも当時の庶民の生き方や暮らしをリアルに描いたもので、こんな物語はそれまでありませんでした(それ以前の物語は、貴族や武士を主人公としたものがほとんど)
江戸以前の読み物は写本(書き写し)によるものでしたが、江戸時代には木版印刷が普及したため大量に刷られるようになります。木版は一丁(二ページ分)ごとに彫るため百ページの本なら五十枚の木版が必要となります。一冊の本を本を作るのにかなりの手間とコストがかかるため、本も高価になります。たとえば『好色一代男』の価格は銀五もんめで、これは現代の価値に直すと約八千~一万円という価格です。これが飛ぶように売れたというのですから、当時の庶民の読書欲の高さがうかがえます。そして実に元禄年間(十六年間)に出版された書物は約一千万部といわれます。年平均で六十万部以上です。出版は江戸時代を代表するビジネスの一つであり、文化の振興を支えたインフラだったのです。
松尾芭蕉まつおばしょうが俳句を完成させたのもこの時代でした。絵画の世界では、庶民の風俗を描いた浮世絵が生まれます。浮世絵もまた木版によって大量に刷ることが出来るようになりました。文芸も絵画も、庶民が嗜み育んだというのが元禄期文化の特徴です。
儒学や朱子学も盛んになりましたが、これは主君に忠義を尽くし目上の者を敬うという朱子学の思想が幕府に尊ばれたからでした。一方で朱子学を批判して、孔子や孟子もうしの教えに戻るべきという学派が生まれているのも面白い現象です。
中国で生み出された囲碁のレベルを飛躍的に高めたのも元禄の日本人でした。
囲碁が日本に伝えられたのは奈良時代と言われていますが、戦国時代には多くの大名が愛好していました。なかでも囲碁好きだった家康は、幕府を開いた後、自分の囲碁の師匠であった本因坊算砂ほんいんぼうさんさに高禄を与えて家元にします。ちなみに算砂は織田信長の師匠であり、信長が彼に「名人」という称号を与えたことで、「名人」という言葉が出来ました。つまり江戸幕府によって、世界史上初の「ゲーム専門の集団」が生み出されたわけですが(将棋の家元も同時に誕生)、元禄期に登場した本因坊道策どうさく は、日本の囲碁を、発祥の地である中国をはるかし凌ぐレベルに高めたのです。その後も碁士(棋士)たちは囲碁を進化させ続け、二十一世紀に入るまでコンピューターが人間に勝てない高みにまで押し上げました。
自然科学が発達したのもこの頃です。元福岡藩士宮崎安貞みやざきやすさだによる『農業全書」には、著者の経験と見聞をもとにした科学的見地から、農業の仕事や作物の栽培法が書かれています。また博物学、医学、天文学、数学も発達しました。もとは囲碁の家元の碁士であった渋川晴海しぶかわはるみ(二世安井算哲やすいさんてつ)は、誤差が生じていた当時の暦(宣明歴せんみょうれき)を見直し、天体を観測して新しい暦(貞享暦)を作りました。
徳川綱豊つなとよ(後の六代将軍・家宣いえのぶ)に仕えた関孝和せきたかかずは、和讃と呼ばれる日本式数学の基礎を確立した人物ですが、その業績は世界的な評価に言えるでしょう。
独力で代数の計算方法を発明し、世界で最も早く行列式の概念を提案下のです。また「エイトケンのΔデルタ 2乗加速法」という計算法を用いて円周率を小数点第十六位まで正確に求めています。エイトケンのΔ2乗加速法がヨーロッパで再発見されたのは一八七六年ですから、関は二百年以上も先取りしたことになります。
江戸時代の庶民は知的レベルが非常に高く、数学好きでもありました。寛永四年(一六二七)吉田光由よしだみつよしが著した『塵劫記じんこうき 』は、面積の求め方やピタゴラスの定理まで書かれた数学の本ですが(関孝和もこの本で勉強した)、これが江戸時代を通してのベストセラーかつロングセラーとなっているのです。幕末までに四百種類もの『塵劫記」が出版されたという事実を見ても、当時の庶民の知的好奇心の高さ、数学好きの度合いがわかります。
その顕著な例が算額でしょう。算額とは、庶民が自分で考えた数学の問題を額や絵馬に書いて神社仏閣に奉納したものですが(解答の算額もある)、中には現代の専門家を悩ますような難問もあるというから驚きます。代表的なひとつが神奈川県の寒川神社に奉納された算額で、このにはノーベル化学賞を受賞した「六球連鎖の定理」お同じものが問題として出されています(解答もあり)。「六球連鎖の定理」の説明は省きますが、とてつもなく複雑な数式を用いた難解なものなのです。この定理をソディが発表するより百年以上も前に日本の和算家が発見していたというのは驚嘆すべきことです。
そもそも算額を奉納するような習慣は世界に例がなく、日本の江戸時代特有の文化です。なお現在、千枚近い算額が発見されており、重要文化財に指定されているものもあります。江戸時代の庶民が数学を勉強したのは、出世や仕事のためではありませんでした。もちろん受験のためではありません。純粋に知的な愉しみとして取り組んだのです。古今東西を見渡してもこんな庶民がいる国はありません。
2025/10/20
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