貨幣改鋳による金融緩和政策で、元禄期に好景気をもたらしたのは、勘定奉行の
荻原重秀
です。重秀が語ったとされる有名な言葉に、「貨幣は国家が造る所、
瓦礫
がれき
を
以
もつ
てこれに代えるといえども、まさに行なうべし」というものがあります。つまり重秀は、「政府に信用がある限りその政府が発行する通貨は金や銀でなくてもかまわない(瓦礫でも代用できる)」という、現代に通じる「国定信用貨幣論」を打ち立てたのです。
この言葉自体は重秀が語ったものではないという説もありますが、重秀がこのように考えていたことは間違いないでしょう。
それまで貨幣の価値は「金」(ギールド)の価値でした。これを金本位制といいます。ちなみに金本位制のもとでは、紙幣であったも金に替えることが出来ず(これを?換紙幣という。現在の紙幣は信用貨幣システムによるもので不換紙幣)。ヨーロッパを中心とした世界が、金本位制を脱し、信用貨幣システムに移行したのは第一次世界停戦を終え、世界恐慌を経た後のことです。それより二百数十年も前に、日本の勘定奉行が、信用貨幣の概念を有し、その流通によって、財政を圧迫することなくデフレを回避し、経済を成長させる策を取っていたのです。これは画期的なことでした。
旗本の次男に生れた重秀は、綱吉に取り立てられて勘定奉行にまでなり、貨幣改鋳以外にも辣腕を振るいました。太閤検地以来八十年ぶりとなる各地の検地、地方直しを実施し、佐渡金山の再生、東大寺大仏殿再建、火山外賦課金の設置、さらに代官の世襲を廃し官僚かを進めるなど、実に多彩かつ現代的な業績を残したのです。にもかかわらず、今日、荻原重秀の名を知る人は多くありません。それどころか、元禄の開花改鋳は教科書などでは負の歴史として書かれています。
その理由は、綱吉の死後、六代将軍・家宣のブレーンとなった新井白石あらいはくせきが、重秀を嫌って弾劾だんがいし、その政策の多くを逆回し(貨幣を金銀本位に戻し緊縮財政に)した上に、強烈なネガティヴキャンペーンを張ったせいでしょう。一例ですが、貨幣改鋳の負の側面として伝えられてきた物価上昇も、年率三パーセント弱にすぎず、それも実際には冷害の影響が大きかったという具合です。
二十世紀イギリスの偉大な経済学者、ジョン・メイナード・ケインズより二百数十年も早く現代のマクロ経済政策を先取りした日本人、荻原重秀の功績はもっと語られてもいいと思います。 |