~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『日 本 国 紀 (上)』 ==

著 者:百 田 尚 樹
発 行 所:幻 冬 舎 文 庫
 
 
 
 
 
赤穂事件
元禄時代は、大きな騒乱・事件の少ない平和な時代でしたが、そんな中、「赤穂事件」は江戸の庶民を驚かせた事件の一つでした。
発端は、元禄一四年(一七〇一)播磨はりま赤穂藩の藩主、浅野長矩あさのながのり(内匠頭たくみのかみ)が江戸城松之大廊下において吉良上野介きらこうずけのすけに斬りかかったことでした(時の将軍は綱吉)。内匠頭は切腹、赤穂藩は改易かいえきとなりましたが、上野介には何のお咎めもなかったことから、赤穂藩の浪人たちが吉良邸に討ち入りし、主君の仇を討ったのです。この事件は後に『仮名手本忠臣蔵かなでほんちゅうしんぐら(略して『忠臣蔵』)として人形浄瑠璃や歌舞伎の人気演目となり、現代でもドラマの題材とされています。
『忠臣蔵』がなぜ当時の庶民の人気をさらったかについては、様々な理由が考えられます。「平和な時代が続き、武士道が廃れたと思われた時代に、古き良き武士の姿を見たから」「忠義のためなら命を捨ててもかまわないという自己犠牲の美しさに感動したから」「仇討ちが格好良かったから」などが挙げられますが、そのすべてがあてはまるといっていいでしょう。
江戸城で刀を抜けば、理由の如何を問わず切腹と決まっていましたから、内匠頭に対する幕府の処置は当然でした(前述したように江戸城内での刃傷にんじょう事件は七回)。内匠頭が刃傷沙汰に及んだ理由については、「いじめ説」や「怨恨説」など多くの学者たちが様々な億節を述べていますが、いずれも論拠に乏しいものです。私は単に精神錯乱であったと思っています。上野介については、松之大廊下の事件の三年前、津和野つわの藩主の亀井茲親かめいこれちかに対しても陰湿ないじめをしたという話が残っていますが、これもおそらく後世の創作でしょう。
豪商の出現
元禄の頃から干拓などの事業によって農地が拡大しました。さらに農機具の発達( 千歯 せんば こぎや 備中鍬 びっちゅうぐわ など)や肥料の改良などにより、農作物の収穫量飛躍的に向上しま。土地ごとの特産品も多く作ら、これらの販売によって貨幣経済が進みました。
漁業や林業や鉱業なども発展し、その流通を担った商人の中には豪商と呼ばれる者も現れます。大坂の淀屋はその代表的な存在で、全盛期に全国の大名に貸し付けていた金は、現在の資産価値に直すと百兆円に上ったとも言われています。ところが宝永二年(一七〇五)、五代目の広当ひろまさ(辰五郎たつごろう)の時に、「町人の分限を超え、贅沢な生活が目に余る」という理由で、幕府によって闕所けっしょ(財産没収)となりました。しかし淀屋は後に再び大阪で店を興して商売を続け、幕末の頃には倒幕運動に身を投じ、ほとんどの財産を朝廷に献上して、店を閉じたのです。
嵐の中を船で紀州から江戸までみかんを運んで大儲けしたエピソードで有名な紀伊国屋文左衛門きのくにやぶんざえもんも元禄時代を代表する豪商ですが、晩年は事業に失敗し、乞食同然の哀れな暮らしだったといいます(異説もある)
元禄の頃に店を興し、その後も長く豪商として残ったのは三井です。三井初代の高利たかとしが作った呉服屋「越後屋」は、後に両替商としても成功し、江戸期を通じて発展しました。
三井一族は明治維新後、世界有数の大財閥となります。しかし大東亜戦争後、進駐軍によって解体され、二百七十三年の歴史に幕が下ろされました。三井一族は全財産の九割を財産税で没収された上、資産の大部分を占める株式を一方的に処分されたのです。さらに一族はすべての会社役員の座から追放されました。江戸英雄元三井不動産社長は、「その取り扱いの無慈悲で過酷な事は戦犯以上であった」と自著に書き残しています。
余談ですが、それから約半世紀後の平成四年(一九九二)、三井家第十一代当主が亡くなった時、遺族は東京都港区西麻布に残された一二〇〇坪の土地と由緒ある邸宅の相続税(約百億円)が払えず、一〇四〇坪を国に物納しました。国はその後、物納された土地を民間に売却しましたが、建物は平成六年(一九九四)に東京都小金井市にある「江戸東京たてもの園」に移築されました。そこでは、元禄から長きにわたって栄華を誇った三井家の往時の姿を今も見ることが出来ます。
2025/10/24
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