元禄時代は、大きな騒乱・事件の少ない平和な時代でしたが、そんな中、「赤穂事件」は江戸の庶民を驚かせた事件の一つでした。
発端は、元禄一四年(一七〇一)に播磨赤穂藩の藩主、浅野長矩あさのながのり(内匠頭たくみのかみ)が江戸城松之大廊下において吉良上野介きらこうずけのすけに斬りかかったことでした(時の将軍は綱吉)。内匠頭は切腹、赤穂藩は改易かいえきとなりましたが、上野介には何のお咎めもなかったことから、赤穂藩の浪人たちが吉良邸に討ち入りし、主君の仇を討ったのです。この事件は後に『仮名手本忠臣蔵かなでほんちゅうしんぐら』(略して『忠臣蔵』)として人形浄瑠璃や歌舞伎の人気演目となり、現代でもドラマの題材とされています。
『忠臣蔵』がなぜ当時の庶民の人気をさらったかについては、様々な理由が考えられます。「平和な時代が続き、武士道が廃れたと思われた時代に、古き良き武士の姿を見たから」「忠義のためなら命を捨ててもかまわないという自己犠牲の美しさに感動したから」「仇討ちが格好良かったから」などが挙げられますが、そのすべてがあてはまるといっていいでしょう。
江戸城で刀を抜けば、理由の如何を問わず切腹と決まっていましたから、内匠頭に対する幕府の処置は当然でした(前述したように江戸城内での刃傷にんじょう事件は七回)。内匠頭が刃傷沙汰に及んだ理由については、「いじめ説」や「怨恨説」など多くの学者たちが様々な億節を述べていますが、いずれも論拠に乏しいものです。私は単に精神錯乱であったと思っています。上野介については、松之大廊下の事件の三年前、津和野つわの藩主の亀井茲親かめいこれちかに対しても陰湿ないじめをしたという話が残っていますが、これもおそらく後世の創作でしょう。 |
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