全国の各藩では、藩主が住む城の周辺に武士や町人が集まり、城下町が発展しました。幕府の直轄地である大坂は、全国の藩が蔵屋敷を置いたこともあり、商人の町として大いに賑わいましたが、どこよりも大発展を遂げたのはやはり江戸でした。
家康が江戸城に入った頃は、推定人口は十五万人ほどだった小都市(同時代の京都は三十万~四十万、大坂は二十万、いずれも推定)に、幕府が開かれると、旗本や全国の大名が次々に屋敷を構え、多くの商工業者も集まったため人口が急増し、元禄時代には町人だけでも三十数万人、武士を含めると八十万人にもなりました。
これに伴い、幕府は江戸の町を整備していきます。まず治水と水上イ交通のため、もともと江戸湾(現在の東京湾)に注いでいた利根川を太平洋に注ぐように河道の付け替え工事(利根川東遷事業)を行ないます。そして台地を削り、その土で埋め立て工事を行なって、土地を増やしました。さらに飲料用の上水道を整備します。江戸の地下水は海水が混じっているために飲料には適さなかったからです。上水道の水源は多摩川と井之頭池で、この二つから引かれた水は、地下に埋め込んだ石樋や木樋もくひの水道を通って江戸中に配水されました。
ちなみに中央・総武線の駅「水道橋」の名は、神田上水の水門から、川の対岸に水を送るための懸樋かけひ
の名残です。大名屋敷や大店では、専用の呼び井戸へ水が送られましたが、庶民の住む長屋へは、木樋からさらに細い竹樋を通じて共同の上水井戸に貯水されました。
ポンプなどもない時代、高低差のにみを利用してすべての上下水道を江戸の町中に網の目のように張り巡らせるのには、きわめて高度な測量技術と土木技術が不可欠でした。トランシット(二点間の角度を測る機械)のような測量機器もない中で、わずかな高低差を計算して地中に石樋や木樋を埋め込んでいく作業には恐ろしいまでの技術力と緻密さが必要です。
たとえば玉川上水の水源から最終的な水門(江戸湾に流れる出口)までの距離四三キロの間の高低差は九二メートルです。これは理論的には四・三メートルの間に九・二ミリの高低差しかないということになります。このわずかな差の下り勾配を正確につけながら江戸中に石樋を敷くなどまさに神業的な技術です。当時の江戸には、この神業を成し遂げるほどの優れた技術者が何人もいたのです。余談ですが、最初の水道を敷くのを指揮した大久保忠行おおくぼただゆきは、その功績によって主水という名を与えられていますが、水道の水が濁ってはならぬということで、「もんと」と読みました(主水は通常「もんど」と読む)。
江戸の水道で驚くべきことは、長屋や借家に住む庶民は上水道を利用するにあたって一切料金を払っていなかったことです。上水道の維持管理費用は、地主が間口に応じて分担金を払うシステムになっており、武家屋敷は石高によって分担金が決められていました。
さらに驚くべきことに下水道も同じように高低差を利用して作られたのです。これも地中の木樋内を通っていくシステムとなっていました(木樋の蓋はどぶ板と呼ばれた)。木樋も蓋も木で作られていて経年劣化するため、常に補修が必要でした。三百年も前に江戸の町でこれほどのインフラ整備が行なわれていたことにははなはだ驚嘆し、先人への敬意を深くするばかりです。
最終的には江戸は百万都市となりますが、人口が増えていくたびに、上水道と下水道の工事が追加されていたことはいうまでもありまん
なお、飲料用の水道が建設されたのは江戸だけではありませんでした。城下町に水道を敷いた藩は少なくなく、播磨国赤穂(現在の兵庫県赤穂市)、備後国びんごのくに福山(現在の広島県福山市)の上水は江戸の上水と並んで、「天下の三上水」といわれました。 |