~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『日 本 国 紀 (上)』 ==

著 者:百 田 尚 樹
発 行 所:幻 冬 舎 文 庫
 
 
 
 
 
閑院宮家創設
宝永六年(一七〇九)、綱吉が亡くなりましたが、彼には嫡男がいなかったため、養子の家宣が六代将軍となりました。家宣はもとは甲府藩主網豊(家光の孫)です。}
家宣は将軍となるとただちに「生類憐みの令」を廃止しました。そして学者の新井白石を侍講(政治顧問)に登用します。家宣は将軍に就いてわずか三年で亡くなり、息子の家継が三歳で将軍となりますが(歴代最年少の将軍)、三歳の童子に政務ができるはずもなく、新井白石が引き続き実際の政治を執り行なったのです。白石はまず元禄時代に改鋳した貨幣の金銀含有量を元に戻しました。これによって幕府の財政が悪化し、同時に市中に出回る貨幣の流通量が減ったため、日本全体がインフレからデフレへ転換し、世の中は不景気となりました。このあたりが経済の不思議なところです。
新井白石の功績で忘れてならないのは、閑院宮かんいんのみや家という宮家を創設したことです。
宮家というのはみやごうを宮号賜った皇族のことですが、天皇が跡継ぎの男子を残さずに崩御した時に天皇を出す家という存在でもありました。ところが、家宣が将軍であった時(東山ひがしやま天皇が在位中)には、三つしかない宮家(伏見宮ふしみのみや桂宮かつらのみや有栖川宮ありすがわのみや)はいずれも天皇とは遠い血筋になっていました。さらに皇族男子の多くが出家している状況でした(過去、出家した皇族が還俗して天皇になった例は「応仁の乱」を戦って勝利した天武天皇のみで異例中の異例)。将来、天皇に跡継ぎがないまま崩御した時に、宮家に皇統を継ぐ男子がいなければ、万世一系は途絶えます。
そのことを危惧した新井白石は、いざという時のために、家宣に新たな宮家を作ることを建白します。それは東山天皇の願いでもありました。そして新たな宮家である閑院宮家の創設が決まりました。そして結果的にはこのことが皇室を救うことになりました。というのは、閑院宮家が創設されて七十年後、後桃園ごみやぞの天皇が崩御した時、跡継ぎの男子がなく、閑院宮家の祐宮さちのみや (東山天皇の曽孫)が皇室に入り、光格こうかく天皇となったからです。
令和の御代の今上陛下はその光格天皇の直系です。
コラム-30
閑院宮家創設が歴史上重要なのは、そのことが皇統断絶の危機を救い、皇室の万世一系を後世に繋げることになったからです。もちろんこれはあおくまで結果論で、後桃園天皇が崩御した時、閑院宮家がなければ皇統を別の誰かが皇室に入った可能性はあります。
わたしがここで言いたいことは、徳川幕府が「万世一系は絶やしてはならない」と考えていたということです。絶対的権力者であった幕府が朝廷をどのように見ていたかがわかります。朝廷こそが日本の国体であり、幕府はあくまでも朝廷に代わって政を行なう機関であることを任じていた証左に他ならないと私は見ています。」
もし徳川家が、「皇室はいずれ消えてしまえばいい、そうなれば徳川が日本を治める最高の家になる」と考えていたなら、皇統の危機に際して、わざわざ閑院宮家を創設するはずはありません。
平成から令和にかけて、多くのメディアや文化人や学者や政治家が「女系天皇論」を主張し始めました。「女系天皇」という言葉は近年メディアによって作られた新語で、その意味するところは「内親王(天皇の娘)が結婚して産んだ子供が天皇になる」ということです。たしかに内親王が産んだ子供は天皇の血統を継いではいます。しかしその夫が皇室の血統を継がない男なら、二人の間に生れた子供は万世一系を継ぐ子供ではありません。つまり「女系天皇」が誕生した時点で、日本は連綿と千数百年以上続いていた万世一系が途絶えるということなのです。そうなれば、「世界最古の国」としての日本は消え、新たな王朝が立つ別の国となりますこれは一般社会における「男女同権」とはまるで次元の違うことなのです。
現在、「女系天皇」を主張する組織や人たちの真の目的がどこにあるのかは不明ですが、三百年以上前に、徳川幕府でさえ、万世一系を守ろうと尽力した事実を、私たちは忘れてならないと思います。
2025/10/27
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