宝永六年(一七〇九)、綱吉が亡くなりましたが、彼には嫡男がいなかったため、養子の家宣が六代将軍となりました。家宣はもとは甲府藩主網豊(家光の孫)です。}
家宣は将軍となるとただちに「生類憐みの令」を廃止しました。そして学者の新井白石を侍講(政治顧問)に登用します。家宣は将軍に就いてわずか三年で亡くなり、息子の家継が三歳で将軍となりますが(歴代最年少の将軍)、三歳の童子に政務ができるはずもなく、新井白石が引き続き実際の政治を執り行なったのです。白石はまず元禄時代に改鋳した貨幣の金銀含有量を元に戻しました。これによって幕府の財政が悪化し、同時に市中に出回る貨幣の流通量が減ったため、日本全体がインフレからデフレへ転換し、世の中は不景気となりました。このあたりが経済の不思議なところです。
新井白石の功績で忘れてならないのは、閑院宮家という宮家を創設したことです。
宮家というのはみやごうを宮号賜った皇族のことですが、天皇が跡継ぎの男子を残さずに崩御した時に天皇を出す家という存在でもありました。ところが、家宣が将軍であった時(東山ひがしやま天皇が在位中)には、三つしかない宮家(伏見宮ふしみのみや、桂宮かつらのみや、有栖川宮ありすがわのみや)はいずれも天皇とは遠い血筋になっていました。さらに皇族男子の多くが出家している状況でした(過去、出家した皇族が還俗して天皇になった例は「応仁の乱」を戦って勝利した天武天皇のみで異例中の異例)。将来、天皇に跡継ぎがないまま崩御した時に、宮家に皇統を継ぐ男子がいなければ、万世一系は途絶えます。
そのことを危惧した新井白石は、いざという時のために、家宣に新たな宮家を作ることを建白します。それは東山天皇の願いでもありました。そして新たな宮家である閑院宮家の創設が決まりました。そして結果的にはこのことが皇室を救うことになりました。というのは、閑院宮家が創設されて七十年後、後桃園ごみやぞの天皇が崩御した時、跡継ぎの男子がなく、閑院宮家の祐宮さちのみや
(東山天皇の曽孫)が皇室に入り、光格こうかく天皇となったからです。
令和の御代の今上陛下はその光格天皇の直系です。
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