~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『日 本 国 紀 (上)』 ==

著 者:百 田 尚 樹
発 行 所:幻 冬 舎 文 庫
 
 
 
 
 
吉宗の時代 (一)
家継は三年後の正徳六年(一七一六)、わずか六歳で亡くなりました。ここで二代将軍・秀忠の血を引く徳川家(直系)の男子は絶えることとなります。そこで幕府は徳川三家の一つである紀州藩の藩主、徳川吉宗(家康の曽孫)を八代将軍としました。宗家の男系男子が絶えた時のために用意しておいた御三家が生きたというわけです。
吉宗は新井白石を解任し、財政再建のために自ら様々な改革を行ないました。これは享保元年(一七一六)に始まったことから、後に「享保の改革」と呼ばれます。そのうちの最大の事柄は、それまでの米の収穫高に応じて決められていた年貢を、豊作凶作にかかわらず一定の量に定めた 定免 こうかく 法に切り換えたことです。これにより幕府の収入は安定しましたが、農民にとっては不作や凶作の時には、非常に厳しい状況となりました。一方、豊作の時は米の価格が下がるため、幕府にとっても農民にとっても益の少ない結果となったのです。。このあたり、吉宗は生きた経済がわかっていなかったといえます。
しかしそれ以外の策は斬新で効果的なものとなりました。全国各地の新田開発、 青木昆陽 あおきこんよう に命じたサツマイモの栽培研究、その他、菜種や朝鮮人参y薬草などの商品作物の栽培奨励、植林政策など、農業改革には注目に値する策がいくつもあります。特にサツマイモの栽培普及は飢餓から多くの人々を救いました。
優秀な人材を確保するために「 足高 あしだか の制」を設けたことも良策の一つでした。江戸時代の武士の地位と禄高(給料)は生まれた家によって決められていましたが、吉宗は優秀な者については高い地位に昇進させ、在職中に限りという条件で禄高も上げるというシステムを作ったのです。
司法改革も行ないました。それまでの裁判は、奉行などが先例に倣いつつ、その時の主観に近いやり方で判決を下していましたが、基本法と判例を明文化した「公事方御定書」(いまでいう「刑事訴訟法」のようなもの)を作り、裁判審理の場で用いることとしたのです。これはそもそも幕府の法律でしたが、後に各藩がこの写本を所有し、次第に日本国内統一法のようなものとなっていきました。
他にも吉宗が「享保の改革」で新設した制度は数多くありますが、何より注目すべきは、「目安箱」の設置です。目安箱とは、江戸の庶民が直接幕府に宛てた注文や請願や訴えの手紙を入れることの出来る箱です(後には京都や大坂やその他幕府の直轄地にも設けられた)
大和朝廷成立以来、千年以上、基本的に庶民は政府に口を出すことはできませんでした(直訴は最悪の場合、死刑)。吉宗はその伝統を打ち破って、広く庶民の訴えを聞くことをシステム化したのです。目安箱に似たものは江戸幕府以前にもあったようですが、吉宗の作ったそれは単なる庶民のガス抜きではありませんでした。私がいたく感心するのは、実際に目安箱に寄せられた庶民の意見を政策に取り入れ、形にしたことです。たとえば江戸幕府の薬草園である小石川御薬園の一角、貧しい庶民のための無料の医療施設である小石川養生所が作られたのも目安箱の投書を採用した事業でした(現在、小石植物園として国の史跡に指定されている)。また江戸の防火対策として庶民の意見がいくつも採用されています。
吉宗は幕府の財政立て直しのために緊縮策をとり、自らも率先して粗衣粗食(食事は玄米で一汁三菜)とし、庶民にも贅沢を禁じました。しかしこれは結果的にデフレを促進させただけでした。
2025/10/28
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