~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『日 本 国 紀 (上)』 ==

著 者:百 田 尚 樹
発 行 所:幻 冬 舎 文 庫
 
 
 
 
 
吉宗の時代 (二)
幕府の緊縮政策に真っ向から逆らったのが、尾張藩主徳川宗春むねはるです。宗春は民に贅沢を奨励し、自らも散在しました。そのお陰で尾張藩の景気は良くなり、城下町の名古屋は空前の繁栄を迎えます。吉宗は宗春のやり方を非難しましたが、宗春は幕府の言うことを聞きませんでした。
ただ尾張藩では町や庶民の景気は良くなりましたが、藩の財政は改善されませんでした。一番の理由は、商人から税金を取らなかったことにあります。尾張藩の収入のほとんどは領内の年貢米(これは換金できた)でした。すでに近代的な経済活動が行なわれつつあった中で、取引先から税を徴収するというアイディアが浮かばなかったのは不思議ではありますが、この点は幕府も同じでした。
吉宗の宗春に対する憎悪は凄まじいものがありました。宗春を強引に隠居させ、名古屋城の三の丸に蟄居ちっきょを命じ、死ぬまでその屋敷から出ることを禁じたばかりか(父母の墓参りさえ許さなかった)、死後も、墓に金網をかけるように命じたという話も残っています。この過酷な処断を見ると、吉宗は自分の経済政策が失敗だったということ、つまり敗北を認めていたのではないでしょうか。宗春が逆の政策をとって名古屋を大いに繁盛させていたということが悔しかったと考えれば辻褄が合います。英明で知られる吉宗でしたが、それゆえに自らの誤りを認めたくなかったのかも知れません。
「享保の改革」で徹底した緊縮策をとっていた吉宗でしたが、一向に景気が回復しない状況に困り果て、元文元年(一七三六)大岡忠相おおおかただすけ (越前守)の忠告を聞き入れて、金の含有量を大幅に減らした貨幣(元文小判)を発行します。つまり綱吉と同じ金融緩和政策を行なったわけです。これは「元文の改鋳」と呼ばれていますが、この策により江戸の町の景気はようやく蘇りました。
後世、「享保の改革」は成功したという評価がされていますが、実際には享保年間(一七一六~一七三六)の二十年に行なわれた改革は経済的には成功とは言い難く、元文の改鋳によって、初めて成功したと言えるのです。
吉宗がしたことでもう一つの重要なことは、次男と四男のために二つの家(田安たやす徳川家、一橋ひとつばし徳川家)を創設したことです。紀伊徳川家出身の吉宗は、今後、将軍の座は自分の血統で固めたいと考えたのかも知れません。そのため、徳川幕府が「御三家」を作ったように、「血のスペア」の意味で二家を創設したのではないかともいわれています。後に作られた清水徳川家を加えた三家は「御三家」と呼ばれました。
ちなみに江戸幕府の最後の総軍、慶喜は一橋家から出ています。ただし、その血筋は紀伊徳川家ではなく、水戸徳川家です。そのことは御述しましょう。
2025/10/29
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