吉宗の後、九代将軍となった
家重
(吉宗の長男)は障碍(脳性麻痺という説が濃厚)のため、言語が不明瞭でした。そんな虚弱体質ながら、幼少から大奥に入り浸り酒と女に溺れたといいます。頻尿でもあり、江戸城から上野寛永寺に行くまでのわずか数キロの間に、二十三ヵ所の便所を設置させたことから、陰で「小便
公方
くぼう
」と揶揄されていました。ただし知能は正常だったという説もあります。
家重の逝去(享年四十九)後、十代将軍となったのは
家治
いえはる
(家重の長男)です。
家治は祖父、吉宗に似て幼い頃より総明で、文武に優れた人物であったといわれていますが、二十三歳で将軍になってからは政治を家臣に任せ、趣味の将棋に没頭したことから、後世、無能な将軍という評価が下されています。残された家治の棋譜から、現代のアマチュア高段者に匹敵する腕は十分にあったとされており、日本将棋連盟会長を務めた
二上達也
ふたかみたつや
九段によれば、詰将棋創作に関しては相当なレベルだそうです。
徳川将軍の中では珍しく愛妻家で、正室(本妻)に男児が生まれなかったことから、やむを得ず側室を持ちましたが、二人の側室が男児を産んだ後は側室のもとへは通わなかったち言いますから、当時としては奇特な将軍といえます。
家治の将軍在位中(
宝暦
ほうれき
一〇年【一七六〇】~天明六年【一七八六】)に、側用人・老中として権勢を誇ったのが、旗本の
沼田意次
たぬまおきつぐ
です(意次が側用人になったのは明和四年【一七六七】)。意次の父は紀州藩の足軽でしたが、吉宗に才能を認められ、幕府の旗本となりました。意次が世に出たのも、吉宗の能力重視の方針のお陰だったのです。
意次は悪化していた幕府の財政を立て直すため、それまでの米中心の経済から、商業振興策へと転換を図りました。鉱山の開発、干拓事業、また清との貿易で重視された輸出用の
俵物
たわらもの
(
煎海鼠
いりこ
、
干鮑
ほしあわび
、
鱶鰭
ふかひれ
)を専売にして貿易の拡大を行うなど様々な新規事業を興します。さらに蝦夷地の天然資源を調査し、ロシアとの交易の可能性を探るために、
国後
くなしり
島や
択捉
えとろふ
島の探検もさせています。
これらの商業振興策もさることながら、意次の政策で最も注目すべきは、商人から税を徴収したことでした。彼は商品流通を行なうための株仲間(幕府から営業の独占権を与えられた商人の集まり)の結成を奨励し、そこから
冥加金
みょうがきん
を取ったのです。これは現代の事業税にちかいものといえます。
この政策はなぜかあまり評価されていませんが、私は画期的なことであったと思います。江戸幕府が開けれて百五十年以上、どの将軍も老中も思いつかなかったことでした。いや経済がこれほど発展し、商人たちが大きな収益をあげ、その金を大名たちに貸して利益を得ていたにもかかわらず、彼らの利益から徴税することに気付かなかったのは不思議だというほかありません。つまりそれだけ米が経済の中心と見られていた証拠かも知れません(藩の大きさや旗本の家格を示す単位も石高であった)。
そもそも江戸幕府が江戸、大坂、京都、その他天領の町のインフラ、街道の整備、役人の給料まで、すべて幕府直轄地の鉱山と年貢で賄うというシステムはどうみても無理がありました。意次が商業経済に目を付けたのはまさに
慧眼
けいがん
でした。意次の商業振興策は、幕府の財政を大いに潤わせ、市中の景気も良くなりました。町人や役人の生活も、それまでの米を中心としたものから金銭中心となり、近代的な経済社会へと急速に近づいたのです。
また吉宗が行なった能力主義をさらに進め、士農工商に囚われずに優れた人材の登用を図って、身分制度にも風穴を開けようと試みもしています。意次の大胆な発想には驚かされるばかりですが、斬新で先鋭的な改革は、旧来の伝統を墨守する保守的な幕閣の反発を買うこととなりました。
意次の改革は、都市以外ではすぐに効果が現れるものではなく、生活に困窮した農民たちが田畑を放棄して都市に流入したため、農村は荒廃していきます。明和の大火や浅間山の大噴火などの大災害かあり、加えて天明の飢饉が起こり、一揆や打ちこわし増えたことで町の治安は悪化し、社会不安が増大します。こうした不運も重なって、天明六年(一七八六)、将軍家治の死と同時に意次は失脚させられました。
もし意次が失脚せず、彼の経済政策をさらに推し進めていれば、当時の経済は飛躍的に発展していた可能性が高いと思われます。そうなると日本は世界に先駆けて資本主義時代に入っていたかも知れません。
沼田意次というと、現代でも賄賂わいろ政治を行なった人物として悪名高いのですが、それは当時の政敵によるデマや噂を信じた後世の人々が作った誤ったイメージです。意次は失脚後、領地や私財のほとんどを没収されるほどの苛烈な処分を受けましたが、実はこの時、財産と呼べるものは驚くほど少なかったといわれています。
意次への処分の厳しさから、いかに彼が既存勢力の幕閣から嫌われていたかがうかがわれます。意次の失脚は、「改革者を蹴落とす」という日本的な悪しき部分を見るようでもあります。
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