~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『日 本 国 紀 (上)』 ==

著 者:百 田 尚 樹
発 行 所:幻 冬 舎 文 庫
 
 
 
 
 
寛政の改革
家治の後に十一代将軍となった家斉いえなりは、もとは一橋徳川家の出身でしたが、家治の息子が急死したため、八歳で家治の養子となり、天明七年(一七八七)に将軍職に就きました。当時、十四歳でした。
家斉は将軍在位五十年と歴代で最も長く将軍職にありましたが、政治を幕臣たちに任せ、大奥に入り浸っていたことから、「俗物将軍」と渾名されました。わかっているだけでも十六人の愛妾を持ち、男子二十六人、女子二十七人をもうけています(成人したのは二十八人)。精力増強のためオットセイの陰茎を乾燥させて粉末にしたものを飲み、陰で「膃肭臍将軍」とも呼ばれていました。幕府は家斉の大勢の子と大名家との縁組の際(半ば無理矢理に養子にやったり、嫁に出したりした)、領地の加増を行なうなど多額の出費をしたため、財政が苦しくなってきます。
家斉の代わりに老中として政務を行なったのは、陸奥白河藩主の松平定信さだのぶ(吉宗の孫。田安徳川家の流れを汲む)でした。二十八歳で老中になった定信は、経済中心の田沼意次の政策を憎み、祖父吉宗が行なった米と農業を基本にした政治を目指して、逆向きの様々な改革を行ないました。田沼意次がやろうとした蝦夷地開拓やロシアとの貿易計画も中止しています。定信のこうした政策は後に「寛政かんせいの改革」と呼ばれます。
一方で、飢饉に備えるために穀物の備蓄命じたり(「囲い米」)、地主や商人などにも、万一の時に備えて基金の積み立てを命じました。また江戸の治安と犯罪者厚生のてめに、無宿人(その多くが軽犯罪者)を集めて職業訓練を行なう「人足寄場」を江戸石川島に設置しました。これを提案したのは池波正太郎の小説『鬼平犯科帳』の主人公として知られる火付盗賊改方長官の長谷川宣以はせがわのぶため平蔵へいぞう です。もっとも実態は強制収容所に近いものでした。私が信定の政策で感心するのは、天明の飢饉で減った農村人口を増やすために、児童手当のようなものを支給していることです国力の基本は人口にあるということをしっかりと認識していた証拠です。
定信は、幕府の役人のみならず、朝廷や大名、農民や町人にいたるまで、厳しい倹約を命じました。昔ながらの文武を奨励し、幕府の学問所(昌平坂しょうへいざか学問所)では朱子学以外の講義を禁じました。(「寛政異学の禁」)。また在野の学者らによる幕政批判を厳しく禁じ、『開国兵談』d国防の危機を説いた林子平はやししへいを処罰しました。これが後に国の安全保障の危機を招く遠因ともなりました。
理想主義で潔癖症の定信は、町人の文化や生活習慣にまで口を出し、贅沢品を取り締まり、公衆浴場での男女の混浴も禁止しました。また洒落本しゃれほんや黄表紙の内容は風紀を乱すものだとして、作者や版元を処罰しました。
しかしこのような理想主義は現代社会の人々の暮らしとは乖離かいりしたもので、定信は将軍家斉との対立もあって、寛政五年(一七九三)に失脚し、彼自身による改革は六年ほどで終わりました(改革は続行された)
コラム-31
この頃に流行った狂歌に、「白河の 清き魚も すみかねて もとの濁りの 田沼こひしき』(大田南畝おおたなんぽ)という有名な歌がありますが、理想だけでは生きていけない庶民の本音が表れています。白河とは陸奥白河藩主だった定信のことです。
大田南畝は御家人で、勘定所勤めの官僚でしたが、若い頃から狂歌の名人で、洒落で諧謔に富んだ歌をいくつも詠んでいます。定信の政策を皮肉った「世の中に 蚊ほどうるさき ものはなし ぶんぶ(文武)といふて 夜もねられず」の作者も南畝といわれています。南畝は当時としては長寿の七十四歳まで生きましたが、道で転倒したことがもとで亡くなりました。辞世は「今までは 人のことだと おもおもふたに 俺が死ぬとは こいつはたまらん」という、実に人を食ったものでした。
余談ですが、死に臨んで和歌などを詠む「辞世」は日本独特の文化の一つで、日本史に残る有名人の多くが和歌を詠んでいます。ただ残念なことに、明治に入ってその風習は急速に廃れ、大東亜戦争後はほとんどなくなりました。私も死ぬ時には、何か一つ拙い歌を詠んでみたいと思っています。
ちなみに南畝の少し後に活躍した式亭三馬しきていさんば(滑稽本『浮世風呂』の作者)の辞世は「善もせず 悪も作らず 死ぬる身は 地獄笑はず 閻魔叱らず」というもので、同じく滑稽本『東海道中膝栗毛』の作者、十返舎一九じつぺんしゃいっくの辞世は、「この世をば どりゃおいとまに せん香の 煙と共に 灰左様はいさようなら」というものです。一九は「遺体を洗わずに火葬してくれ」と遺言し、友人たちが火葬にしたところ、着物の間に仕込んでいた花火が炸裂して、葬儀の参列者を驚かせたという愉快な逸話が残っています。
南畝の狂歌や、三馬や一九の滑稽本には、幕府の政治体制とは別世界に生きた江戸の庶民のしたたかな精神とユーモアが随所に垣間見られます。 
2025/10/31
Next