~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『日 本 国 紀 (上)』 ==

著 者:百 田 尚 樹
発 行 所:幻 冬 舎 文 庫
 
 
 
 
 
見せかけの天下泰平
定信が失脚した後は、将軍家斉も贅沢三昧な生活を送り、社会も再び活性化します。
景気が良くなる中で、文化・文政(一八〇四~一八三〇)の元号を取って「 化政 かせい 文化」と呼ばれる町人文化が花開くことになります。浮世絵は技術が上がり、多色刷りの豪華絢爛な版画が多数作られ、また滑稽本などの出版文化も全盛期を迎えます。歌舞伎も隆盛を極めました。
「元禄文化」は上方(京都、大坂)を中心としたものでしたが、「化政文化」は江戸を中心としたもので、ここ頃を境に文化の発信地が江戸に移ります。江戸の庶民は太平の世に花開いた享楽的ともいえる化政文化を謳歌しました。しかしその平和な暮らしは、非常に危い基盤の上に成り立っているものでした。この時すでに、日本は累卵の危うきともいうべき状況にあったのです。その原因は異国の脅威です。
十八世紀の半ばからイギリスでは産業革命が起こり、ヨーロッパ全体が凄まじい勢いで近代化していました。日本は百五十年にわたる鎖国政策のせいで、武力や科学技術の分野でヨーロッパ諸国に大きく後れを取っていたのですが、幕府はそn現実と深刻さに気付いていませんでした。寛政の改革の頃(天明七年【一七八七】~寛政五年【一七九三】)、日本が自国のことで精一杯だった頃、世界はまさに激動の時代を迎えていたのです。
安永あんえい四年(一七七五)に、イギリスの植民地だったアメリカの十三州が独立を目指してイギリスと戦って勝利し、アメリカ合衆国が生まれ(独立宣言は安永五年【一七七六】)、寛政五年(一七八九)には、フランスのパリで市民が反乱を起こし、最終的には国王を処刑するという大事件が起きました。これは「フランス革命」と呼ばれています。
ヨーロッパ諸国の多くは君主制だったので、フランスの市民革命が自国に広がるのを抑えようと、革命政府をつぶしにかかりましたが、ナポレオン・ボナパルト率いるフランス軍がそれらの国を打ち破りました。フランスの英雄となったナポレオンはついにフランス皇帝の座に就きます。皮肉なことに民衆によって立てられた革命政権を守るために戦った男が、再び君主制に戻したというわけです。もっとも、その皇位は前王朝とは何ら血統的つながりもなく、ただフランスで新しい絶対権力者が生まれてというに過ぎません。フランスに限らずヨーロッパの王朝はすべて日本の皇室のような長い伝統を有してはいません。一方、「フランス革命」の精神である「人間は平等である」というスローガンはヨーロッパに広まり、近代化への大きな原動力となりました。
ただしヨーロッパ人が唱えた「平等」は、あくまで白人のキリスト教徒に限られ、有色人種や異教徒に対しては一切の人権を認めず、アフリカ、アメリカ、アジアの植民地で先住民を虐殺、奴隷化していきます。自由を求めてイギリスと戦ったアメリカもその後、現地のアメリカ・インディアンを大量に虐殺しました。中南米ではそれ以前にスペイン人が行なった殺戮によって先住民が絶滅寸前にまで追い込まれています。
日本がそんなヨーロッパの動きに背を向けて、自国だけで太平の夢をむさぼっている間に、世界はヨーロッパ人によって蹂躙じゅうりんされていたのです。十五~十七世紀の大航海時代に、スペインとポルトガルが、アフリカ、南北アメリカ、インドへ進出し、その後、イギリス、オランダ、フランスが続き、十八世紀までに、有色人種が住む地域の多くを植民地化したのです。その流れは十八世紀後半にイギリスで起こった産業革命によりさらに加速しました。こうして東南アジア諸国も、一八〇〇年代に次々とヨーロッパの国々に滅ぼされ、多くが植民地とされていきました。
ヨーロッパから見て極東に位置する日本は、最後に残されたターゲットでした。私が文化文政の頃の日本を「累卵の危き」と表現したのはまさにこの状態を指しての言葉です。
2025/10/31
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