田沼時代の明和年間(一七六〇年代)から、ロシア船が日本近海に出没し始めていましたが、寛政年間(一七九〇年代)には、ロシア船、イギリス船、アメリカ船が次々と来航して、幕府に通商を要求するようになりました。当然ながら幕府はいずれも拒否しました。
家光が「鎖国令」を出した頃の日本は、ヨーロッパの国々でも容易に手を出せない国力(武力)を持っていましたが、前述したように百五十年という時間は彼我の力関係に大きな変化を与えていたのです。特に大きかったのが蒸気機関の発達です。それを動力とした工場は生産力を増し、また蒸気船や蒸気機関車の発明によって、人の移動や物の物流が飛躍的に増加していました。産業革命により資本主義社会となったヨーロッパの国々は新たな市場を求めて、アジアへの進出に一層拍車がかかりました。
オランダ以外のヨーロッパ船が日本に通商を求めて来たのは、安永七月(一七七八)、蝦夷地の
厚岸
(現在の北海道厚岸郡厚岸町)に来たロシア船が最初でしたが、これは松前藩が拒否しました。しかし十四年後の寛政四年(一七九二)、ロシア遣日使節が根室にやって来て、再び通商を求めると、幕府は長崎への入港の許可書を与えて退去させています。
十二年後の文化元年(一八〇四)、ロシアは今度は長崎に来航して通商を求めますが、幕府は半年以上も回答を引き伸ばした末、翌年、拒否しました。これに怒ったロシアは文化三年(一八〇六)と文化四年(一八〇七)に樺太からふとや択捉島で略奪や放火を行ないます。これは「文化露寇ぶんかろこう」といわれる事件で、「弘安の役」以来五百二十五年ぶりの外国による攻撃でした。そのためかどうか、文化四年(一八〇七)、幕府は朝廷にこのことを報告しています。これは少なくとも外交に関しては朝廷の任を受けて事に当たっているという幕府の意識の現れと言えるかも知れません。このことは後のペリー来航の時に大きく顕在化することになります。
幕府はそれまでロシアの漂着船には水や食糧を支給して速やかに帰らせる「ロシア船撫憮ぶじゅつ令」を出していましたが、この事件以降、蝦夷地を幕府の直轄地とし、東北諸藩に出兵を命じて、蝦夷地沿岸の警備を強化するとともに、同年、「ロシア船打払令」を出しました。ちなみに「撫憮」とは「あわれみ、いつくしむこと」という意味ですが、なんとも「上から目線」なものでした。
ちなみに樺太南部と択捉島は一六〇〇年代以降、日本が実効支配していました。ただ、樺太北部に関しては、一八〇〇年代半ばまで領有が曖昧でした。樺太おび千島列島の領有問題は後述します。
日本に来航したのはロシア船だけではありませんでした。寛政八年(一七九六)には室蘭にイギリス船が来航し港の水深を測っていますし、享和三年(一八〇三)には長崎にアメリカ船が来航して通商を求めています(幕府は拒否) |