~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『日 本 国 紀 (上)』 ==

著 者:百 田 尚 樹
発 行 所:幻 冬 舎 文 庫
 
 
 
百田尚樹の新版・日本国紀 第32回
 
フェートン号事件
こうして次第に緊迫の度合いを高めていた時に、「フェートン号事件」が起きます。
文化五年(一八〇八)八月十五日(新暦十月四日)、イギリスの軍艦フェートン号がオランダ国旗を掲げて長崎に入港し、同国人と思って出迎えたオランダ商館員を拉致したという事件でした。長崎奉行の松平 康英 やすひで はイギリス側に対して、オランダ人を解放するように求めましたが、イギリス側はそれに応じず、水と食糧を要求しました。
この事件の背景には、オランダとイギリスの敵対関係があります。寛政五年(一七九三)にオランダはフランスに占領され、文化三年(一八〇六)にナポレオンが自分の弟をオランダ国王にします。これによりフランスと敵対関係にあったイギリスにとってオランダは敵国となり、フェートン号はオランダ船の 拿捕 だほ を目的に長崎にやって来たのでした。ヨーロッパのナポレオン戦争が遠く離れた日本にも影響を与えたというわけです。日本は知らないうちに世界史の事件の中に巻き込まれていたのです。
事態の収拾を目指す康英は湾内警備を担当する佐賀藩に対し、フェートン号を拿捕あるいは焼き討ちするように命じます。ところが太平の世に慣れ切っていた佐賀藩は、経費節約のために守備兵力を一割減らしていたのです。よって康英は近隣の藩に援軍を要請しました。
十六日、イギリス側は人質を一人解放し、あらためて薪、水、食料(米、野菜、肉)を要求すると同時に、拒否すれば港内の和船を焼き払うと恫喝してきました。康英はやむなく食糧や水を提供、オランダ商館から提供された豚と牛もイギリス船に送ると、要求を満たしたイギリス船は残る人質を解放して、出航しました。
十七日未明になってようやく大村藩から兵隊が長崎に駆けつけましたが、フェートン号はすでに去った後でした。事件後、康英は、国威を辱めたとして自ら切腹、佐賀藩の家老数人も切腹しました。
この事件は日本とイギリスの間で国際問題とはなりませんでしたが、著しく主権を脅かされた出来事でもありました。文化三年と四年のロシア人による樺太および択捉島での略奪、そして文化五年のフェートン号事件により、幕府はイギリスとロシアを危険な国と認識し、長崎通詞(幕府の公式通訳者)らにイギリスについて研究するよう命じると同時に、オランダ語通詞全員に英語とロシア語の研修を命じました。
文化八年(一八一一)には「ゴローニン(ゴロヴニンとも)事件」が起きました。
これは松前藩配下の南部藩士が国後島でロシア軍艦のゴローニンら八人を、捕まえた事件です。この拘束の経緯については、松前藩とゴローニン双方の言い分(帰国後の証言)が食い違っていますが、箱館(函館)で取調べを行なった松前藩の奉行は先の三年に起こったロシア人たちによる樺太や択捉島で行なった略奪行為の報復と見做していました。そしてこの事件により、ロシアと日本は一時、軍事的緊張が高まります。ロシアの副艦長は本国に戻り、ゴローニン救出のために遠征隊を出すように要請しましたが、当時ロシアはナポレオンとの戦争直前で、日本に遠征隊を送る余裕はありませんでした(ナポレオンのロシア遠征は翌年の文化九年【一八一二】)。ここでも日本は世界史の中に関係しています。
この事件は最終的に、民間の回船かいせん業者高田屋嘉兵衛たかだやかへい (ロシアに船を拿捕され人質になっていた)の尽力などで、ロシア側が樺太や択捉島での略奪行為を謝罪するという形をとり、文化一〇年(一八一三)ゴローニンらが釈放されて解決しました。この時、ロシアは幕府に対して国交樹立と国境画定協議を提案します。幕府は国交樹立は拒否しますが、国境画定協議は応じる構えを見せます。しかし諸事情のため、両国の間で国境画定の交渉が行なわれるのは四十二年後となります。
文化一四年(一八一七)、イギリス船が浦賀に来航します。この時は特に目的はなかったようでしたが、翌文政元年(一八一八)、再びイギリス船が通商を求めて浦賀に来航します(幕府は拒否)。文政五年(一八二二)にもイギリス船は浦賀に来航して、薪や水や。食料の提供を求めますが、幕府は薪と水を与えたものの、交易は禁じる旨を伝えています。
2025/11/01
Next