文政七年(一八二四)、「
大津浜
事件」が起きました。これはイギリスの捕鯨船の乗組員十二人が水戸藩の大津浜(現在の茨城県北茨木市大津町)に上陸した事件です。
実は十八世紀にはヨーロッパの船は日本近海で捕鯨を行なっており、事件の少し前から水戸藩の近海でも、異国の捕鯨船が頻繁に見られるようになっていました。この時、大津浜に上陸したイギリス人らは、船に壊血病の患者が出たため、新鮮な野菜と水を求めてやって来たのでした。水戸藩士らが彼らを捕えますが、事情を聞いた幕府役人は、水と野菜を与えて釈放します。というのも、ロシア船に対しては「ロジア船打払令」出ていましたが、その他の異国船には「撫憮令」が適用されていたからです。これは「
薪水
しんすい
給与令」ともいわれ、薪(燃料)と水と食糧が不足した異国船に対しては、それらを与えて追い返すというものでした。
しかし水戸藩では、この幕府の対応を手ぬるいと非難する声が上がりました。この事件の際にイギリス船員と会見した水戸藩士であり水戸学の学者であった
会沢正志斎
あいざわせいしさい
が尊皇攘夷論を説いた『新論』を著し、これが後の水戸藩での譲位運動につながったと言われています。
同じ年、薩摩沖の宝島(奄美大島と屋久島の間に位置する島)でも、イギリスの捕鯨船の乗組員と島民の間で争いが起こっています。「宝島事件」と呼ばれるこの事件は、この時、上陸したイギリス人(二十~三十人といわれる)が牛三頭を強引に奪ったため、薩摩藩士がイギリス人一人を射殺したものです。
この二つの事件がきっかけとなり、文政八年(一八二五)、幕府はそれまでの「薪水給与令」を廃し、「異国船打払令」を出すに至ります。これは日本沿岸に接近する外国船は、見つけ次第砲撃し、また上陸する外国人は逮捕するという強硬なものでした。別名「無二念打払令」とも呼ばれますが、「無二念」とは「何も考えずに」という意味です。つまり幕府は外国との交流は問答無用で拒否するという強気な姿勢を内外に示したのです。この時の幕府は、外国船など威嚇すれば逃げていくだろうと高を括っていたふしがあります。二百年近くも前に、家光が鎖国令を出した時と違って、ヨーロッパとの国力(武力)差が逆転していることを認識していなかったのです。
ところが天保一三年(一八四二)、アヘン戦争で清帝国がイギリスに負けたことを知った幕府は、初めて彼らの強さを認識しました。すると途端にイギリスおよびヨーロッパ列強に怯え、同年、それまでの政策を一八〇度転換して「異国船打払令」を廃し、遭難した船に限り給与を認める「天保の薪水給与令」を発令しました。まさに右往左往の策です。 |