少し遡りますが、「異国打払令」が出された三年後の文政一一年(一八二八)、「シーボルト事件」が起きています。これはオランダ商館付の医師シーボルトが、国外へ持ち出しが禁じられていた「日本地図」の縮図をオランダに持ち帰ろうとした事件です。海岸線が詳細に描かれた日本地図は、国防上きわめて重要な資料でした。この事件でシーボルトは追放、彼に関わった多くの日本人が処分されました。
シーボルトはオランダのスパイだったという説がありますが、私は、シーボルトは純粋な興味から、日本地図を土産物として持ち帰ろうとしたのだと思っています。博物学者であったシーボルトは非常に好奇心旺盛な学者で、帰国の際、哺乳動物標本五千点以上、植物二千種、植物標本一万二千点の他日本で収集した文学的民族的コレクション五千点以上を持ち帰っています。日本地図もその一つに過ぎなかったのでしょう。もっともシーボルトはオランダ政府から日本の内偵調査の命令を受けていたと言われており、そうした任務を行なっていた可能性はあります。
シーボルトは日本に滞在中、ヨーロッパの最先端の医学を多くの日本人に教え、蘭学を学ぶ者の中には、西洋を無条件に敵視する幕府の姿勢に疑問を抱く者も現れました。蘭学者の中には「日本は開国し、西洋の優れた知識や文化を取り入れるべきだ」と考える者もいたのです。
江戸幕府も「蛮書和解御用掛」を設置するなどして蘭学を積極的に受け入れる姿勢を示したものの、その流れは天保八年(一八三七)に起こった「モリソン号事件」で断ち切られます。
アメリカの商船モリソン号は漂流した日本人漁民七人を保護し、彼らを日本に届けるために浦賀にやって来ました(これを機に通商を求める目的もあった)。ところが、イギリスの軍艦と勘違いした浦賀奉行が砲撃し、モリソン号を追い払いました。ただ、この時、日本の大砲の射程が短く、脅威ではないことが明らかになっています。
幕府がモリソン号は漂流民を届けにやって来たという真相を知ったのは一年後、オランダ商館からの情報によってです。
蘭学者の渡邊崋山わたなべかざんや高野長英たかのちょうえいらは幕府の対応を非難します。そこで幕府は崋山ら多くの蘭学者を捕えます。この言論弾圧を「蛮社ばんしゃの獄」といいます。当時、蘭学者は「南蛮の学問を学ぶ」とうことから「蛮社」と呼ばれていました。この時、多くの素晴らしい学者が殺されたり、永牢(終身刑)の処分を受けたりしました。これは日本にとって大きな損失でした。西洋について詳しい情報を持った人物を粛清する行為が、自らの首を絞めることにつながりかねないということに、幕領たちは気付いていなかったのです。
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