~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『日 本 国 紀 (上)』 ==

著 者:百 田 尚 樹
発 行 所:幻 冬 舎 文 庫
 
 
 
百田尚樹の新版・日本国紀 第34回
 
シーボルト事件と蛮社の獄
少し遡りますが、「異国打払令」が出された三年後の文政一一年(一八二八)、「シーボルト事件」が起きています。これはオランダ商館付の医師シーボルトが、国外へ持ち出しが禁じられていた「日本地図」の縮図をオランダに持ち帰ろうとした事件です。海岸線が詳細に描かれた日本地図は、国防上きわめて重要な資料でした。この事件でシーボルトは追放、彼に関わった多くの日本人が処分されました。
シーボルトはオランダのスパイだったという説がありますが、私は、シーボルトは純粋な興味から、日本地図を土産物として持ち帰ろうとしたのだと思っています。博物学者であったシーボルトは非常に好奇心旺盛な学者で、帰国の際、哺乳動物標本五千点以上、植物二千種、植物標本一万二千点の他日本で収集した文学的民族的コレクション五千点以上を持ち帰っています。日本地図もその一つに過ぎなかったのでしょう。もっともシーボルトはオランダ政府から日本の内偵調査の命令を受けていたと言われており、そうした任務を行なっていた可能性はあります。
シーボルトは日本に滞在中、ヨーロッパの最先端の医学を多くの日本人に教え、蘭学を学ぶ者の中には、西洋を無条件に敵視する幕府の姿勢に疑問を抱く者も現れました。蘭学者の中には「日本は開国し、西洋の優れた知識や文化を取り入れるべきだ」と考える者もいたのです。
江戸幕府も「蛮書和解わげ御用掛」を設置するなどして蘭学を積極的に受け入れる姿勢を示したものの、その流れは天保八年(一八三七)に起こった「モリソン号事件」で断ち切られます。
アメリカの商船モリソン号は漂流した日本人漁民七人を保護し、彼らを日本に届けるために浦賀にやって来ました(これを機に通商を求める目的もあった)。ところが、イギリスの軍艦と勘違いした浦賀奉行が砲撃し、モリソン号を追い払いました。ただ、この時、日本の大砲の射程が短く、脅威ではないことが明らかになっています。
幕府がモリソン号は漂流民を届けにやって来たという真相を知ったのは一年後、オランダ商館からの情報によってです。
蘭学者の渡邊崋山わたなべかざん高野長英たかのちょうえいらは幕府の対応を非難します。そこで幕府は崋山ら多くの蘭学者を捕えます。この言論弾圧を「蛮社ばんしゃの獄」といいます。当時、蘭学者は「南蛮の学問を学ぶ」とうことから「蛮社」と呼ばれていました。この時、多くの素晴らしい学者が殺されたり、永牢(終身刑)の処分を受けたりしました。これは日本にとって大きな損失でした。西洋について詳しい情報を持った人物を粛清する行為が、自らの首を絞めることにつながりかねないということに、幕領たちは気付いていなかったのです。
コラム-32
百田尚樹の新版・日本国紀 第35回
シーボルトが持ち出そうとした地図は、「大日本沿岸輿地よち全図」の縮図ですが、これを作ったのは伊能忠敬いのうただたかという一民間人でした。
上総かずさ国山辺郡小関村(現在の千葉県山武郡九十九里小関)で生まれた忠敬は農民であり商人でもありました。四十九歳で隠居しますが、驚いたことに五十歳の時に江戸に出て、当時、天文学の権威であった三十一歳の高橋至時たかはしよしときを師匠として、天文学、暦学、数学を学んだのです。至時と忠敬はやがて壮大な事を考えつきます。それは正確な測量による日本地図の作成dした。ちょうどその頃、ロシア船が何度も蝦夷地に来航していました。至時は幕府に蝦夷地の測量を願い出て、忠敬がその任に就いたのです。
こうして寛政一二年(一八〇〇)、五十五歳の忠敬は蝦夷地測量の旅に出ました。忠敬の測量はあしかけ十七年にも及び(その間に師匠の高橋至時は亡くなっている)、ついに日本の沿岸図を正確に描いた地図「大日本沿岸輿地全図」を作り上げるのです。(実際に出来上がったのは忠敬が亡くなった三年後、高橋至時の息子の景保かげやすが完成させた)。これによって幕府は海防および国防の上で大きな情報を得ました。「大日本沿岸輿地全図」は別名「伊能図」あるいは「伊能大図」と呼ばれています。
忠敬が作った地図を前にすると、私は言葉を失うほどの深い感動を覚えます。
当時の平均寿命を超えている年齢から暦学を学び、五十五歳から七十一歳まで、日本全国を歩いて測量するなど、想像もつかない気力と努力です。さらに驚くべきことは、忠敬の測った緯度の誤差が約千分の一だったということです。海岸線は人が歩けないし険しい崖や岩で覆われてところが多いにもかかわらず、忠敬の残した地図には、そうした海岸線もきわめて正確に描かれています。現代のような測量機器などはもちろんない時代です。凹凸のある道なき道を行き、その距離を正確に測るというのは、まさに超人的な、気の遠くなるような大仕事です。
忠敬のような人物を知ると、当時の日本人の底知れぬパワーに、あらためて畏敬の念を抱かずにはいられません。頻繁にやって来る異国船を前に、幕閣が右往左往している時にも、こうした民間人(測量の旅に出た時は幕府の役人)が日本を支えていたのです。
2025/11/02
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