天保八年(一八三七)、家斉の子
家慶
が十二代将軍となりましたが、家慶は政治への関心が薄く、趣味に没頭し、家臣の意見を聞いても「そうせい」と言うのが口癖だったため、陰では「そうせい様」と渾名されました。これは四代将軍の家綱の「左様せい様」と同じです。
しかし家綱の時代(慶安四年【一六五一】~延宝八年【一六八〇】)と、家康の時代(天保八年【一八三七】~
嘉永
かえい
六年【一八五三】)では日本を取り巻く状況がまるで違っていました。対外的に異国船来航の事件が幕府を揺るがせていたのは前述の通りですが、国内的にも大きな問題がいくつも起こっていました。
天保年間(一八三〇~一八四四)に入って、毎年のように不作が続き、天保四年(一八三三)には天保の大飢饉が起こりました。この大飢饉は天保一〇年(一八三九)まで続き、その間に日本の人口は全体の四パーセント近い百二十五万以上減少したといわれています。
天保八年(一八三七)、天保の大飢饉の影響で、大坂でも連日、百五十~二百人もの餓死者が得たといわれている年にある事件が起きました。元大坂町奉行東組与力で儒学者の
大塩平八郎
おおしおへいはちろう
は、私財をなげうって餓えた民衆の救済活動を行なっていましたが、一向に根本的な解決策を取らない幕府の怠慢と、米を買い占める豪商に対して怒りを爆発させ、ついに民衆と共に蜂起したのです。しかし密告者のせいで乱はその日のうちに鎮圧されました(大塩平八郎の乱)。
同じ年、越後国柏崎で国学者の生田万いくたよろずが貧民救済のため蜂起します(生田万の乱)。
翌年には佐渡でも大規模な打ちこわしが起こるなど、全国各地で暴動が頻発しました。
日本は内外ともに大きく揺れていたのです。前述の「蛮社の獄」が起こったのも天保一〇年(一八三九)でした。
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