~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『日 本 国 紀 (上)』 ==

著 者:百 田 尚 樹
発 行 所:幻 冬 舎 文 庫
 
 
 
百田尚樹の新版・日本国紀 第34回
 
黒船来航
嘉永五年(一八五二)六月、オランダ商館長は、一年後にアメリカ艦隊が開国要求のために日本にやって来るという情報を幕府に伝えます。幕閣らはその時にどう対応するかを議論したものの、結論を出せずじまいでした。
翌嘉永六年(一八五三)六月三日(新暦七月八日)、ペリー率いるアメリカの軍艦四隻が浦賀にやって来ました。そして武力の行使をおのめかし、開国を要求します。この時、幕府は慌てふためくばかりでした。というのも、何の準備もしていなかったからです。そしてここから幕府も日本全体も開闢以来の混迷の時代を迎えます。
激動の幕末を語る前に、アメリカ側の事情を述べておきます。アメリカが日本に開国を求めた理由は、日本が捕鯨船の寄港地として最適だったからです。当時、捕鯨はアメリカの重要な産業の一つでしたが、捕鯨船は一年以上の航海を行なうため、大量の薪や水や食糧を入手できる補給拠点や、難破した時のための非難港が必要だったのです。捕鯨の目的は、ランプの燃料となるクジラの脂を取ることでした。当時、まだ石油(灯油)は使われておらず(ペンシルベニア州でアメリカ初の油田が発掘されるのは安政六年【一八五九】)、加えてアメリカは 弘化 こうか 五年(一八四八)にメキシコとの戦争に勝って、カリフォルニアを含む西海岸を手に入れたことで、太平洋全体が重要なエリアとなっていたのです。もうひとつ「米清貿易」のための寄港地が欲しかったという理由もありました。
ペリーは日本に来る二年前の嘉永四年(一八五一)、日本遠征の基本計画を海軍長官に提出していますが、その中には次のような文章があります。
「日本人は蒸気船を見れば、近代国家の軍事力を認識するはずです」
「中国人に対したのと同じように、恐怖に訴える方が、友好に訴えるより有効である」
まさに「舐められ」ていたのす。しかし、これが外交です。この時、アメリカ艦隊はいつでも戦闘を開始できる状態でした。
実はアメリカは三年前に、オランダに「日本との交渉の仲介」を依頼して断わられています。ペリーが日本の海の玄関である長崎ではなく浦賀に来たのは、オランダに交渉の邪魔をさせないためでした。ペリーは日本遠征が決まった時から、前述のシーボルトやゴローンンの書いた本を読み、日本人の性質を徹底的に研究していました。
このように事前に様々な情報を仕入れ、用意周到にやって来たアメリカ艦隊に対し、幕府とはといえば、オランダ商館長から一年も前にペリー来航の情報を知らせれていながら、何の準備もしていませんでした。それどころか、ペリーが来航する半世紀も前から、ヨーロッパ船やアメリカ船の来航頻度が年々高まり、開国要求も強まっていく中にありながら、幕府は来るべき「✕デー」にはまったく備えていなかったのです。
歴史学者の中には、そうではないと否定する人がいます。たしかに幕府は諸大名に情報を与えたり、海岸防御御用掛(海防掛)などに意見を求めたり、三浦半島の防衛のために兵を増やしたりはしていましたが、実際にアメリカ艦隊が来たらどにょうに対処すべきという結論は一切なかったのです。その証拠に、ペリーの開国要求に対して幕府は返答出来ず、「将軍が病気のために決定出来ない」として、一年の猶予を要求いているのです。つまり、何も考えていなかったということに他なりません。
こん事実を私たちはどう見ればいいのでしょうか。普通に考えれば、文化・文政の頃には、幕閣らも、いずれ欧米列強が武力を背景に開国を迫って来ることはわかっていたはずです。長崎のオランダ商館から毎年、送られて来る『阿蘭陀風説書オランダふうせつがき(世界情勢の報告書のようなもの)で、世界の情勢をおおよそ掴んではいました。もちろん『阿蘭陀風説書』に世界情勢のすべてが書かれていたわけではありません。たとえば、オランダがナポレオンに敗れて占領されていたことなどは伏せられていましたが、それでもアジアやアフリカ諸国のほとんどが欧米列強に支配されていることなどは幕府も把握していましたし、清がイギリスにアヘン戦争で敗れ、香港を奪われたことも知っていました。
にもかかわらず、幕府は五十年以上、何もしないで手をこまねいていたのです。
年々増してくる異国の開国抑圧に対し、ただ 弥縫策びほうさく(一時しのぎの間に合わせの方策)を重ねることで問題を先延ばしにいていたのです。史料第一主義の歴史学者の中には、幕府は度々「異国船打払令」や「海防令」のようなものを出している例をあげて、十分に異国の圧力に備えてたと言う人がいますが、「打払令」を出すのと、実際に外国船を追い払えるだけの武力を持つのは似て非なるものです。最も重要なのは、外国の開国要求に対して対応出来るだけの国力と国際的な交渉力を備えることでしたが、幕府はそれを怠ってきたのです。
しかし嘉永六年(一八五三)、黒船来航によって、徳川幕府はついに追い詰められました。そしてここから日本の歴史は大きく動きます。
2025/11/05
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