~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『日 本 国 紀 (上)』 ==

著 者:百 田 尚 樹
発 行 所:幻 冬 舎 文 庫
 
 
 
 
 
幕府狼狽
ペリーは大統領からの国書を、半ば無理矢理に幕府に手交しました。
そこには「日本はアメリカ船に石炭と水を供給すること」「アメリカの難破船や乗組員を救助すること」「下田と箱館(函館)を開港し、アメリカの領事を駐在させること」などの要求が記されてありました。幕府は一年後に返答すると答え、ペリーを帰国させました。
アメリアの艦隊が去った十日後、将軍家慶が亡くなります。暑気あたりで病臥びょうがしていたとのことですが、おそらくは黒船来航による精神的なショックも影響したと考えられます。二十九歳の息子の家定いえさだが跡を継ぎ、十三代将軍となりました。
前将軍の家慶は十四男十三女をもうけましたが、成人まで生き残ったのは家定にみでした。江戸時代の乳幼児の死亡率が現代とは比べものにならないほど高かったことは言うまでもありませんが、家慶の子らの死亡率は当時の基準で見ても異常です。もしかしたら遺伝的な何かがあったのかも知れません。そして家定も幼少から病弱な上に言葉が不自由でした。身体にも麻痺があり(おそらく脳性麻痺)、気に入らないことがあるとすぐに亡き、そのため人前に出るのを極端に嫌ったと言われています。
父の家慶は、家定には将軍職は務まらないと考え、一時は一橋家から養子を取って将軍継嗣けいしにしようとしていたほどでした。
江戸幕府を揺るがす大事件の最中に将軍が死去するという巡り合わせもさることながら、跡を継いだ将軍が心身ともに脆弱な人物であったこともまた、幕府にとっての大きな不運だったと言えるでしょう。
家康は亡くなる前、「今後の政治は徳川斉昭なりあき(海防参与)阿倍正弘あべまさひろ(老中)に任せる」と言い遺しました。徳川斉昭(水戸藩主)は開国には大反対で、アメリカとの戦争も辞さずという徹底した攘夷論者でしたが、阿倍正弘(備後福山藩主)は、それが交際情勢を無視した考えだということをわかっていました。
しかし、何が最善策であるかわからなかった阿倍は、全国の諸大名に対して、忌憚のない意見を出すようにと命じましたが、これは異例なことでした。徹底した上意下達で、諸大名に対して幕府が政策案を求めることなど、かつて一度もなかったからです。
それほどまで困り果てていたおいうことですが、見方を変えると、民主主義の萌芽であるとも言えます。というのも、幕府はやがて大名に止らず、旗本や御家人、さらには町人にまでアイディアを求めていくようになるからです。八代将軍・吉宗の目安箱とは違い、庶民が政道そのものに意見出来るという状況は、かつて日本にはなかったことです。
寄せられた意見は七百十九通にものぼりました(町人からも九通あった)が、中には当時無役の三十歳の勝義邦の意見もありました。勝の意見を要約すると、「国を守るには軍艦が必要である。同時にそれを操れる海軍士官と水兵の養成、つまり海軍が必要」というものでした。この意見が幕府の役人の目に留まり、勝は後に長崎海軍伝習所に派遣され、出世の糸口を掴むことになります。
幕末に起こった討幕運動は全国の下級武士たちによって興されましたが、それもこの時に幕府が下々に広く意見を求めたことがきっかけになったといわれています。つまり「自分たちも天下のご政道に口を出してもいいのだ」という空気が生まれたのです。
同時に、今の幕府では国は守れないのではないかという危機感を、多くの者が抱くようになったのです。そしてこの意識が時代を大きく動かしていきます。
コラム-35
黒船が来航したことで、幕府は江戸湾の海岸警護を周辺の藩に命じますが、各藩とも武具を満足に所持しておらず、慌てて出入りの商人に武具を集めさせました。足軽や従卒の数も足りず、これも斡旋屋に依頼して、とりあえず頭数だけを揃えたという話も残っています。
直参の旗本や御家人も同様で、徳川将軍の号令で異国と一戦交えるかも知れない事態になったものの、多くの家には甲冑かっちゅうすらありませんでした。そのため旗本や御家人が古道具屋に殺到し、それまで十両ほどだった具足が七十~八十両にも跳ね上がりました。壊れた武具を直す鍛冶屋も大繁盛したといいます。長らく太平の世に浸りきり、幕府も大名も、そしてもちろん一般の武士たちも「国防」を完全におろそかにしてきたことの証左です。
ペリーが兵隊を乗せた小舟を下し、江戸湾(現在の東京湾)の水深を測るという行動に出た時、防備にあたっていた川越藩士たちはそれを阻止しようとしますが、幕府から「軽挙妄動を慎め」と命じられていた浦賀奉行によって押しとどめられました。自国領内、しかも江戸城の目も前の海を外国人が堂々と測量することを黙認した幕府の態度は腰抜けとしかいいようがありません。
このことは私の目には、現代の日本でおきていること、たとえば尖閣諸島の沖で、中華人民共和国の海警局の船の跋巵を看過している状況と似たことのようにも見えます。
2025/11/06
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