安政元年十二月(新暦一八五五二月)、ロシアと日露和親条約を締結したことは前述しましたが、この条約には今日の日露関係にも大きな影響を及ぼす重大な内容が含まれていました。それは北方四島が日本領であるという確認です(国境線は択捉島とウルップ島との間に引かれた)。樺太はこれまでのように国境線を引かず、両国民が混住するということに決まりました。
条約締結への道のりにはある美談が残されています。遅れ馳せながら日本との通商を求めて、ロシアの提督プーチャチンが下田に現れた折、安政大地震が起きました。下田の町は津浪で壊滅状態となり、停泊していたロシアの黒船も壊れ、プーチャチン一行も行き場を失いました。この時、ともに被災していた伊豆の人々とロシアの乗組員は協力して被災者救済にあたります。その後、日本側がロシア側に帰国のための新しい船を造って寄贈しようということになりました。
当時、伊豆の代官だった江川太郎左衛門は、長崎で海防を学び、後に江戸湾に、国防のための洋上砲台(現在にお台場)を設置した先進的な人物でした。彼は幕府にかけあい、腕利きの職人や資材を伊豆に集めます。そしてロシアの乗組員らとも協力し、日本史上初の西洋式帆船を完成させたのです。
この後に行なわれた日露の交渉によって、正式に国境線が決められ北方四島は日本の領土と定められました。ここで読者に誤解をしないでもらいたいのですが、日露和親条約以前から北方四島は日本の領土です。ロシア側にあらためてそれを確認させた上で、択捉島とウルカップ島の間に国境線を引いたのです。
それから約百六十年後の平成二八年(二〇一六)、日本を訪れたロシアのプーチン大統領に、安倍晋三首相が一枚の絵を贈りました。そこに描かれていたのは、かつて日露の人々が協力して造った帆船「ヘダ号」(造船された戸田村、現在の静岡県沼津市戸田の地名から名付けられた)でした。両国の先人の親善、協力の美談とともに、北方四島の帰属を決めた歴史を思い起こそうというメッセージを込めたギフトだったのです。 |