「日米修好通商条約」が結ばれた一ヶ月後、将軍家定が三十四歳で亡くなり、家定の養子で十二歳の
家茂
が十四代将軍となりました。
家定には子供がいなかったため、幕府内では以前から継融問題が起こっていました。
水戸藩主の徳川斉昭ら幕政改革派(一橋は)は「一橋慶喜を推しましたが、大老の井伊直弼ら幕府保守派(南紀派)が推す紀伊徳川家当主の
慶福
よしとみ
(家茂)が継融となります。
家茂は将軍となったものの、政治の実権は引き続き大老の井伊直弼が握っていました。
幕府が朝廷の勅許を得ずにアメリカと通商条約を結んだことや将軍の後融を勝手に決めたことで、一橋派の大名や公家も公然と幕府を非難するようなり、前水戸藩主や尾張藩主らは井伊直弼に抗議するために江戸城に不時登城(定式登城日以外の登城で禁じられたいた)を行ないますが、直弼はこれに怒り、彼らに謹慎などの処分を下しました。これが契機となり、直弼は「条約反対派」や「一橋派」に対して厳しい弾圧を加えました。これは「安政の大獄」と呼ばれています。
孝明天皇は「朝廷の勅許を得ずに日米修好通商条約を結んだことは許せぬ」「幕府は攘夷を推進するため改革をすべし」という内容の勅諚(天皇の命令のようなもの)を水戸藩に下しました(二日遅れで幕府にも下された)。水戸藩への勅書の添書きには「この内容を全国の諸藩に伝えよ」と記されていました。この勅書は俗に「戊午ぼごの密勅」と言われていますが、それは正式な手続きを経ないで出されたものだったからです。
幕府は水戸藩に対し、諸藩へ伝えることを禁じ、さらに勅書を朝廷に返納するよう命じます。井伊直弼は密勅は水戸藩が画策したものと見做し(事実ではない)、前藩主の徳川斉昭は永蟄居、家老や京都留守居役などは切腹や斬首となりました。「安政の大獄」では、一橋慶喜も隠居謹慎を命じられています。
このこの事件の後、「安政の大獄」による弾圧はさらに激しいものとなり、最終的に、刑死(切腹を含む)した者は八人、遠島や追放は七十人以上にのぼりました。松下村塾で多くの俊秀を育てた吉田松陰もこの時、処刑されています。
私は井伊直弼の開国の決断自体は正しかったと考えています。徳川斉昭や孝明天皇のような国際情勢を無視した攘夷論は話しにならないし、頑迷に開国を拒絶し続けていたなら、日本を武力で侵略する列強が出て来た可能性もありました。あるいは「アロー戦争」で清を破ったイギリスとフランスのように、連合軍として日本に相対してきたかも知れません。たしかに不平等条約は残念なことだったが、当時の幕府が苦しい状況の中で最悪の事態を回避したと言えるのかも知れません。
ただし、「安政の大獄」はやりすぎでした。この苛烈な策が反発を呼び、国内の攘夷論がさらに高まった上に、討幕の気運も生まれたからです。特に密勅の件における水戸藩への処罰は水戸藩士を激怒させました。
安政七年(一八六〇)三月、水戸藩を脱藩した十七人と薩摩藩士一人が、彦根藩邸から江戸城に向かう井伊直弼の行列を襲撃する事件が起きました。「桜田門外の変」と呼ばれるこのテロ事件で、井伊直弼は殺されます。
この時、彦根藩の行列には護衛の藩士二十六人、足軽や中間も含めると六十人近くがいましたが、わずか十八人の刺客に藩主の首を取られています。当日は季節はずれの雪で、彦根藩の侍らは刀の柄つかと鞘さやに袋をかぶせていたために抜刀するのに手間取ったという不運もあったのですが、襲撃と同時に少なくない藩士が逃走したとも伝えられています。そもそも護衛のために付いていた侍が刃に柄袋をかぶせるなど、有り得ない話です。危機感の著しい欠如というほかありませんが、戦国時代「井伊の赤備え」と他家に恐れられ、誉の高かった井伊家の藩士たちさえもが、長年の太平の世に暮らすうち、侍の覚悟すら失っていたということなのでしょう。 |
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