~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『日 本 国 紀 (上)』 ==

著 者:百 田 尚 樹
発 行 所:幻 冬 舎 文 庫
 
 
 
 
 
和宮降嫁
将軍がいる江戸城の前で大老が暗殺されるという前代未聞の事件は、幕府の屋台骨を大きく揺るがせました。老中になった安藤信正あんどうのぶまさ(岩城平いわきだいら 藩主)久世広周広くぜひろちか(関宿せきやど藩主)は、早急に幕府の威信を回復させなければならないと考え、同時に反幕の矛先を和らげるため、公武合体(朝廷と幕府が一致協力して国難に対処していこうという政策)を画策します。その策とは孝明天皇の妹である和宮親子かずのみやちかこ内親王を将軍家茂に嫁がせるというものでした。この時和宮は有栖川宮熾仁親王ありすがわのみやたるひとしんのうとの婚約が決まっていたため和宮も孝明天皇も最初は拒絶しますが、幕府は「攘夷を実行するから」という実現不可能な約束をして、文久ぶんきゅう二年(一八六二)二月、家茂と和宮の婚儀が行われます。この時、家茂、和宮ともに十六歳でした。
孝明天皇は討幕派ではなく、むしろどちらかといえば公武合体派に近い考え方で、しかも幕府が攘夷を約束したこともあり、この時、降嫁を拒む和宮を説得したといわれています。
しかしこの婚儀は急進的な尊皇攘夷論者から非難を浴びました。降嫁の年の一月、脱藩した六人の水戸藩士が岩城平藩邸から江戸城に向かう安藤信正の行列を襲い、安藤を負傷させます。この事件は「坂下門外の変」と呼ばれています。刺客は護衛の岩城平藩士によって全員が殺され、暗殺の目的は達せられませんでしたが、「桜田門外の変」に続いて、江戸城のすぐそばでテロ事件が起きたことで、幕府の権威はさらに失墜します。安藤は老中を罷免され、隠居・蟄居を命じられました。
孝明天皇は討幕派ではなく、むしろどちらかといえば公武合体派に近い考え方で、しかも幕府が攘夷を約束したこともあり、この時、降嫁を拒む和宮を説得したと言われています。
しかしこの婚儀は急進的な尊皇攘夷論者から非難を浴びました。降嫁の年の一月、脱藩した六人の水戸藩士が岩城平藩邸から江戸の向かう安藤信定の行列を襲い、安藤を負傷させます。この事件は「坂下門外の変」と呼ばれています。刺客は護衛の岩城平藩士によって全員が殺され、暗殺の目的は達せられませんでしたが、「桜田門外の変」に続いて、江戸城のすぐそばでテロ事件が起きたことで、幕府の権威はさらに失墜します。安藤は老中を罷免され、隠居・蟄居を命じられました。
コラム-38
政略のために泣く泣く降嫁した和宮でしたが、結婚後は仲睦まじい夫婦となったと言われています。家茂は優しい性格で、総明でもあったと伝えられています。幼い頃は小動物を可愛がるのを愉しみとしていましたが、十二歳で将軍となってからは、そうした趣味は封印し文武両道に励みました。幕府海軍奉行の勝義邦は「武勇にも優れた人物であった」と語っています。
家茂の優しさを表すエピソードの一つに、こんな話があります。ある日、書の達人の老臣が家茂に字を教えていた時、突然、家茂が墨をるための水を老臣にかけてしまい、「今日はここまで、また明日」と言って席を立ちました。日頃にはない家茂の乱暴な態度に周囲の者はいぶかりましたが、水をかけられた老臣は涙を流していました。実は老臣は習字中に失禁していたのです。将軍の前で粗相周囲に知られれば厳しい処分を受けるとみた家茂は、咄嗟に老臣に水をかけて不問に付したのです。
また別のエピソードも残っています。伝染病のためにフランスのかいこが絶滅の危機に瀕したことを知った家茂は、蚕種を農家から集めてナポレオン三世に寄贈しました。フランスではその蚕を研究して病気の原因を突きとめることが出来、同時に生き残った蚕同士を掛け合わせて品種改良に成功したのです。ナポレオン三世は謝礼として慶応三年(一八六七)、幕府に対し、軍馬の品種改良のためのアラビア馬二十六頭を贈呈しています。
後に、家茂は崩れ落ちようとする幕府の立て直しに、若き身を投じ懸命に奮闘しますが、志半ばにして二十歳の若さで世を去ります。死因は脚気でした。
2025/11/09
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