将軍がいる江戸城の前で大老が暗殺されるという前代未聞の事件は、幕府の屋台骨を大きく揺るがせました。老中になった安藤信正(岩城平いわきだいら
藩主)と久世広周広くぜひろちか(関宿せきやど藩主)は、早急に幕府の威信を回復させなければならないと考え、同時に反幕の矛先を和らげるため、公武合体(朝廷と幕府が一致協力して国難に対処していこうという政策)を画策します。その策とは孝明天皇の妹である和宮親子かずのみやちかこ内親王を将軍家茂に嫁がせるというものでした。この時和宮は有栖川宮熾仁親王ありすがわのみやたるひとしんのうとの婚約が決まっていたため和宮も孝明天皇も最初は拒絶しますが、幕府は「攘夷を実行するから」という実現不可能な約束をして、文久ぶんきゅう二年(一八六二)二月、家茂と和宮の婚儀が行われます。この時、家茂、和宮ともに十六歳でした。
孝明天皇は討幕派ではなく、むしろどちらかといえば公武合体派に近い考え方で、しかも幕府が攘夷を約束したこともあり、この時、降嫁を拒む和宮を説得したといわれています。
しかしこの婚儀は急進的な尊皇攘夷論者から非難を浴びました。降嫁の年の一月、脱藩した六人の水戸藩士が岩城平藩邸から江戸城に向かう安藤信正の行列を襲い、安藤を負傷させます。この事件は「坂下門外の変」と呼ばれています。刺客は護衛の岩城平藩士によって全員が殺され、暗殺の目的は達せられませんでしたが、「桜田門外の変」に続いて、江戸城のすぐそばでテロ事件が起きたことで、幕府の権威はさらに失墜します。安藤は老中を罷免され、隠居・蟄居を命じられました。
孝明天皇は討幕派ではなく、むしろどちらかといえば公武合体派に近い考え方で、しかも幕府が攘夷を約束したこともあり、この時、降嫁を拒む和宮を説得したと言われています。
しかしこの婚儀は急進的な尊皇攘夷論者から非難を浴びました。降嫁の年の一月、脱藩した六人の水戸藩士が岩城平藩邸から江戸の向かう安藤信定の行列を襲い、安藤を負傷させます。この事件は「坂下門外の変」と呼ばれています。刺客は護衛の岩城平藩士によって全員が殺され、暗殺の目的は達せられませんでしたが、「桜田門外の変」に続いて、江戸城のすぐそばでテロ事件が起きたことで、幕府の権威はさらに失墜します。安藤は老中を罷免され、隠居・蟄居を命じられました。 |
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