安政七年(一八六〇)の「桜田門の変」がきっかけとなったかのように、以降、日本中でテロの嵐が吹き荒れるようになります。狂信的な攘夷論者によって各地で外国人が殺されたり襲撃されたりする事件も多発します。
京都でも尊王攘夷派の志士たちが「天誅」と称して、佐幕開国派(幕府の政策を支持する精力)の武士を暗殺するテロ事件が横行しました。京都にはそうした志士と呼ばれるテロリストが五百人もいるといわれ、連日のように起こる殺人事件は、もはや京都所司代や町奉行の手には負えなくなっていました。このため幕府は文久二年(一八六二)に京都守護職を置くことにし、会津藩にその任に当たらせることとします。
二十六歳の若き会津藩主松平容保かたもりは最初、この任を固辞しますが、再三の要請により、ついに引き受けました。家老たちは、京都守護職に就くということは「薪を背負って火中に飛び込むようなもの」と言って容保に翻意を促しますが、容保は日本と京都を守る覚悟で任地に赴きます。
容保は頑迷な佐幕派ではなく、むしろ開明的な思想を持ち、公武合体により日本を強化したいという思いを持っていた人物でした。
彼はテロリストを弾圧するのではなく、むしろ彼らの主張に耳を傾けてやるべきと考えており、「国事に関することならば内外大小を問わず申し出よ。手紙でも面談でも一向にかまわない。その内容は関白を通じて天皇へ奉じる」との布告を発令し、幕府へも建議します。しかし将軍後見職にあった一橋慶喜は「そんなものを聞いていてはきりがない」とにべにもない態度を通しました。
志士たちの暴挙は一向に収まりませんでした。容保は配下に新撰組や京都見廻組を組織してテロリストを取り締まりますが、こんことが後に長州藩の恨みを買い、会津の悲劇へとつながっていきます。 |
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