~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『日 本 国 紀 (上)』 ==

著 者:百 田 尚 樹
発 行 所:幻 冬 舎 文 庫
 
 
 
 
 
吹き荒れるテロの嵐
安政七年(一八六〇)の「桜田門の変」がきっかけとなったかのように、以降、日本中でテロの嵐が吹き荒れるようになります。狂信的な攘夷論者によって各地で外国人が殺されたり襲撃されたりする事件も多発します。
京都でも尊王攘夷派の志士たちが「天誅てんちゅう」と称して、佐幕開国派(幕府の政策を支持する精力)の武士を暗殺するテロ事件が横行しました。京都にはそうした志士と呼ばれるテロリストが五百人もいるといわれ、連日のように起こる殺人事件は、もはや京都所司代や町奉行の手には負えなくなっていました。このため幕府は文久二年(一八六二)に京都守護職を置くことにし、会津藩にその任に当たらせることとします。
二十六歳の若き会津藩主松平容保かたもりは最初、この任を固辞しますが、再三の要請により、ついに引き受けました。家老たちは、京都守護職に就くということは「薪を背負って火中に飛び込むようなもの」と言って容保に翻意を促しますが、容保は日本と京都を守る覚悟で任地に赴きます。
容保は頑迷な佐幕派ではなく、むしろ開明的な思想を持ち、公武合体により日本を強化したいという思いを持っていた人物でした。
彼はテロリストを弾圧するのではなく、むしろ彼らの主張に耳を傾けてやるべきと考えており、「国事に関することならば内外大小を問わず申し出よ。手紙でも面談でも一向にかまわない。その内容は関白を通じて天皇へ奉じる」との布告を発令し、幕府へも建議します。しかし将軍後見職にあった一橋慶喜は「そんなものを聞いていてはきりがない」とにべにもない態度を通しました。
志士たちの暴挙は一向に収まりませんでした。容保は配下に新撰組や京都見廻組を組織してテロリストを取り締まりますが、こんことが後に長州藩の恨みを買い、会津の悲劇へとつながっていきます。
荒れる京の町
文久三年(一八六三)、八月、京都で大きなクーデターが起こります。これは「八月十八日の政変」と呼ばれるもので、天皇の主導によって外国と戦争を行なおう(攘夷親征)とする過激派の公家が京都から追放された事件です。この時、彼らを支援していた長州藩も同時に京都から追われています(七人の公家が長州に下ったことで「七卿落ち」といわれる)
さらに翌元治げんじ元年(一八六四)の六月、「池田屋事件」が起こります。これは攘夷派の志士たちが集まっていた池田屋という旅籠(京都三条)を新撰組(会津藩の治安維持にための下部組織のような存在)が襲撃した事件です。この時、多くの志士が殺されたり捕縛されたりしました。京都に潜伏していた長州藩の大物志士も何人も殺されています。
同年七月、長州藩は失地回復と会津藩主の松平容保を排除するために、京都に兵を送り込みました。これを会津藩と薩摩藩を中心とするいくつかの藩が迎え撃ち、京の市街で戦闘が行なわれました。これは「禁門の変」(蛤御門の変)と呼ばれています。
ちなみに藩同士の戦いは「大坂夏の陣」以来のもので、京の市街地の家が約三万戸焼失したと言われています。この戦いで長州藩は敗北し、「朝敵」となります。
朝廷はただちに幕府に対して長州追討の勅令を出し、幕府は三十五の藩から十五万の兵を動員して長州に軍を送ります。これは「第一次長州征伐」といわれるものですが、長州が三人の家老を切腹させるなどして謝罪の意を示したことで、実際は戦いは行なわれませんでした。
2025/11/09
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