ここで時間を少し戻しますが、「安政の大獄」で日本中が騒然となっている頃、はるか海の向うでは、日本人がアメリカ人を驚かせていました。安政七年(一八六〇)一月、日本の遣米使節団の一行が日米修好通商条約批准のため、日本人として初めてアメリカを公式訪問したのです。
メンバーはアメリカの軍艦ポーハタン号に乗った
新見正興
(正使)、
村垣範正
むらがきのりまさ
(副使)、
小栗忠順
おぐりただまさ
(目付)ら七十七人と、護衛艦の
咸臨丸
かんりんまる
に乗った九十六人の総勢百七十三人。咸臨丸には
木村喜毅
きむらよしたけ
(総督)、勝義邦、
福沢諭吉
ふくざわゆきち
、
中浜万次郎
なかはままんじろう
(ジョン万次郎として知られる)がいました。
新見らはサンフランシスコから蒸気機関車とアメリカ軍艦を乗り継いで、東海岸に到着します。ニューヨークでは彼らの姿を一目見ようとする市民たちで溢れかえりました(ブロードウェイを往く使節団の行列とそれを見守る群衆の写真が残っている)。
ニューヨーク・ヘラルド紙は一行を「星からの珍客」と評しました。髪を結い、見たこともない服装で、腰に二本の刀を差した日本人の姿は。アメリカ市民たちの目には非常に奇異に映ったに違いありません。しかしアメリカ人はまもなく。日本人一行の礼儀正しい振る舞い、慎み深い態度に感銘を受けます。ニューヨーク・タイムズ紙は「彼らは世界で最も洗練された人たちである。我々には奇妙に見えるけれども、彼らから見れば我々も奇妙に見えるだろう」と書いています。
新見らはホワイトハウスでアメリカ大統領に謁見しますが、大統領が江戸城のような大きな城に住んでいないことに驚きました。さらにワシントンの海軍工廠に案内され、その巨大さに衝撃を受けます。目付の小栗忠順は今さらながらに攘夷の愚かさを認識しました。そしてアメリカの技術を取り入れることを心に誓ったのです。この時、小栗は一本のネジを土産に持ち帰っています。このネジは群馬県高崎市にある東善寺に今も大切に保管されています。
しかし小栗もまたアメリカ人たちを驚愕させていました。実は小栗は一両小判とドル金貨の交換比率を定める為替レート交渉という任務を負っていたのですが、造幣局において、彼はアメリカ人技師たちの前で小判とドル金貨のそれぞれの金含有量を測ってみせます。彼らはまず小栗が使った天秤の精密さに驚き、次に小栗の算盤による計算の速さと正確さに舌を巻きました(アメリカ人の筆算よりも小栗の算盤の方が何倍も速かった)。
一方、咸臨丸の一行もアメリカ人に感銘を与えていました。中でも私が好きな逸話は木村喜毅総督のパーフォーマンスです。咸臨丸にはサンフランシスコの上流階級の人々が見学に来ましたが、この時、夫人たちも艦内に入ろうとしまっした。幕府の軍艦は女人禁制であり、木村は乗船を断わりました。すると夫人たちは怒り、今度は日本人を欺こうと男装してやって来て、まんまと乗船して艦内を見学したのです。下船の時、木村は彼女らにお土産として紙包みを渡しました。船から降りて紙包みを開けると、そこには美しい簪かんざしが入っていました。この粋なはからいに、夫人たちが感激したのはいうまでもありませんが、サンフランシスコ市民も喝采を送りました。この話が伝わると、日本人の株が一気に上がったといわれています。
ちなみに木村は出航前に、家に伝わる家宝を売り払って小判とアメリカ金貨に換え、咸臨丸に詰め込んで訪米中の諸雑費にあてていますが、おそらくこの簪もその金で購あがなったものでしょう。国を背負って立つという任務のために私財を擲ったのです。木村は維新後、明治新政府から士官の誘いを受けますが、それを断わって貧しい隠居生活で生涯を送ります。
この訪米で、アメリカ文化に直接触れた使節団の男たちが得たものは計り知れません。小栗忠順、勝義邦、福沢諭吉らは後に日本史に大きな足跡を残すこととなります。
しかし日本においては、いまだ維新の嵐が吹き荒れており、近代化にはもう少し時を経なければなりませんでした。 |