咸臨丸に乗っていた中浜万次郎は、日本史の教科書などで大きく取り上げられることはありませんが、私は幕末史を語る上で避けて通れない重要な人物だと思っています。敢えて言えば、幕末の日本を動かした人物だとすら考えています。
万次郎ほど数奇な運命を辿った人物はないといっても言い過ぎではありません。文政十年(一八二七)、土佐国
幡多
郡中ノ浜村(現在の高知県土佐清水市中浜)の貧しい漁師の家に生まれた万次郎は幼くして父を亡くしたために、寺小屋にも通えず、読み書きも出来ませんでした。十四歳の時、乗り組んだ漁船が難破して、仲間四人と共に絶海の無人島(鳥島)に漂着します。
そこで幸運にもアメリカの捕鯨船に助けられますが、当時、海外に出た日本人は帰国すれば処刑されてしまうため、船長のホイットフィールドは一行をハワイに降ろそうとしました。しかし万次郎は仲間と離れてただ一人捕鯨船員として船に残ることを希望します。万次郎は船の中で見た世界地図で、日本の小ささを知り衝撃を受けていたのです。
同年、捕鯨船がアメリカに帰国した後、万次郎はマサチューセッツ州ニューベッドフォードのファヘイブンに住むホイットフィールド船長の養子となります(当時船長は新婚だった)。そこから高等教育機関のバーレット・アカデミーに通い、高等数学、測量、航海術、造船技術などを学びます。万次郎はその学校を首席で卒業していますが、日本では寺小屋にも行かず、十四歳で初めて英語に触れたことを考えると、彼がいかに優秀であったかがわkぁります。また学問だけでなく、当時の日本にはなかった自由な民主主義の概念をも身に付けました。しかしその一方、アジア人であることによる人種差別をも経験しています。当時のアメリカは南北戦争前で、黒人はまだ奴隷の状態でした。
卒業後はホイットフィール家を出て、捕鯨船に乗って世界を回ることになります。途中、船長が病気で船を降りた時、新しい船長を決める船員たちの投票で、万次郎ともう一人の船員が同数一位となりますが、万次郎は年長者に船長の座を譲り、自分は副船長となります。そして普通なら十年はかかると言われた一等航海士にわずか三年で選任されたのです。
二十三歳の時、日本に帰ることを決意した万次郎は嘉永二年(一八四九)に帰国資金を得るためにサンフランシスコの金鉱で採掘をします。余談ですが、この年のカリフォルニアのゴールドラッシュにはアメリカ全土から約三十万人の人が金を求めて集まったといわれ(彼らは「フォーティナイナイズ」と呼ばれている)、それまで人口わずか二百人くらいの小さな町であったサンフランシスコが一挙に大都市になりました。そこに一人の日本人の若者がいたというのはドラマを感じさせます。
万次郎は、そこで得た資金をもとに上海行きの商船に乗りました。途中、かつてハワイで分れた漁師仲間に再会して彼ら(全員ではない)をも帰国の船に乗せます。
嘉永四年(一八五一)、万次郎は仲間と共に、商船から小舟に乗り換えて、琉球に上陸しました。すぐに鹿児島へ送られて薩摩藩による取り調べを受けますが、藩主、島津斉彬が自ら万次郎に会い、万次郎の語るアメリカの話に真剣に耳を傾けたのです。万次郎が「異国では、人の値打は身分によって定まらず、才によって定まる」と語った時、斉彬は何度も深く頷いたといいます。薩摩藩は万次郎を優遇し、藩の洋学校の英語講師に採用しました。また彼から得た知識をもとに、後に和洋折衷の
越戸船
おつと
を建造します。万次郎はその後、土佐に戻り、十一年ぶりに母との再会を果すのですが、この時、土佐藩は万次郎を士分として取り立て、藩校の教授に任命しました(この時に生徒に
後藤象二郎
ごとうしょうじろう
や
岩崎弥太郎
いわさきやたろう
らがいる)。
嘉永六年(一八五三)、黒船来航によって慌てふためいた幕府はアメリカの情報を得るために万次郎を江戸に招き、旗本の身分を与えます(この時、中浜という苗字が授けられた)。その後、軍艦操練所の教授となり、測量術や航海術などを指導し、英語教育も行ないました。
一方、艦隊を率いて日本に開国を迫ったペリーとの交渉の通訳に、万次郎ほどの適役はいませんでしたが、老中がスパイ疑惑を持ち出したため、役目から外されました。もし万次郎が交渉で重要な役目を負っていたなら、日米修好通商条約の中身は相当変わっていたでしょう。
この頃、勝義邦も万次郎と会い、アメリカ文化を学んでいます。勝の先見性と視野の広さは万次郎から授けられたところが大ではないかと私は思っています。万次郎は幕末から明治の時代に当時のアメリカにおける民主主義を最もよく理解していた人物でした。坂本龍馬も万次郎の世界観に大きな影響を受けたといわれています。この後、日本は勝や龍馬が思い描いたように動いていきますが、彼らの師として「世界」を教えたという意味で、万次郎こそが幕末の日本に最も大きな影響を与えた一人だといえます・。
遣米使節団の一員として咸臨丸に乗り組んだ際には、艦長格を自任する勝義邦がひどい船酔いでほとんど動けなかったため、代わって万次郎が操船の指揮を執ることになりました。この時、万次郎の操船技術の高さにもアメリカ人が感嘆しています。咸臨丸に乗船していたアメリカ海軍のジョン・マーサー・ブルック大尉は、「咸臨丸日記」で「咸臨丸上ではジョン万次郎だけが、日本海軍を改造するには何が必要かを知っている唯一の日本人だった」と書いています。
その後も万次郎はいくつかの役職に就きますが、いずれも彼の高い能力に見合うポストとはいえませんでした。幕府に取って代わった明治政府も彼を重用しなかったのです。(明治政府が与えたポストは東京大学の英語教授)。理由は、少年時代に漢文などの教養を身に付けておらず、日本語の文章力に乏しいからというものでした。いかにも日本の官僚的な考え方です。アメリカの近代的な政治システムを肌で知っていた万次郎が明治政府の要職に就いていたなら、日本の明治はまた違ったものになっていたに違いありません。
なお、明治三年(一八七〇)、ヨーロッパへ派遣された万次郎は、帰国の途中アメリカに立ち寄り、恩人のホイットフィールド船長と四世紀半ぶりの再会を果しています。余談ですが、万次郎の子孫である中浜家とホイットフィールド家の子孫の間では今も交流が続いており、万次郎の故郷である土佐清水市と、ホイットフィールド家があったマサチューセッツ州のフェアヘイブン市は姉妹都市の関係となっています。
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