?国
夫人 主恩を承 け
平 明 馬に上りて宮門に入る
卻 って脂粉の顔色を?
すを嫌い 淡く蛾
眉 を掃
いて至尊に朝す | |
素顔に自身があったればこそ、さっと眉を描いただけで帝にお目通りしたというのだが、さて玄宗は?国
(カクコク) 夫人にお手をつけたのか。 姉妹で帝の寵愛を受ける例は少なからず、ふたたび武則天を引き合いに出せば、高宗は皇后となった武則天の一族を厚遇し、その姉を韓国夫人に列した。そして気の強い皇后の目を盗んで、密かに韓国夫人と情を通じていたが、やがてそのことを察知した皇后によって、韓国夫人は消されてしまう。
『後漢書』 の注釈者として名を留める章懐太子 (ショウカイタイシ) すなわち李賢
(リケン) は、高宗と武則天のあいだに生まれた第二皇子 (高宗の子としては第六皇子) であるが、実は、この韓国夫人が生母であるといわれている。韓国夫人亡き後、彼女と亡夫との間に生まれたむすめが成人し、これも高宗から魏国夫人を賜ったが、魏国夫人もまた高宗の寵を受けたため、武則天に毒殺された。
ところで、玄宗は楊貴妃の姉である?国 (カクコク) 夫人 にお手をつけたのか。さきにあげた杜甫の詩からすると、そのことを暗示しているようにも思われる。しかし、すでに六十歳をこえ、楊貴妃を寵愛している玄宗が、?国
(カクコク) 夫人にまで好色の手をのばしたかどうか。彼女は楊サと通じ、楊貴妃の姉というだけで気ままに暮らしていたのではあるまいか。
?国 (カクコク) 夫人ばかりではない、韓国夫人と秦国夫人、それに楊貴妃の兄である楊銛
(ヨウセン) と、弟あるいはいとこの楊リ (ヨウキ) をひっくるめて楊氏五宅 (ヨウシゴタク)
と称したが、彼らの権勢たるやまた大変なもので、楊氏五宅の下僕までが肩で風を切って長安を闊歩していた。 たとえば、あるとき玄宗の公主
(内親王) たちの一人広平 (コウヘイ) 公主の従者といさかいを起こし、楊氏の下僕が鞭をふるったところ、鞭の先が公主の衣に触れ公主は落馬した。それでも下僕は鞭をふるうのをやめなかったので、公主が泣いて父帝に訴え、その下僕は杖殺
(ジョウサツ) せられたという。しかし、落馬した公主を扶けおこした程昌裔 (テイショウエイ)
なる役人も官を免ぜられた。 また、玄宗が楊貴妃を伴って華清宮へ幸するときは、れいの三夫人も従うのが常であったが、彼女たちは楊サの邸で落ち合うことになっていた。ところが、彼女たちの馬車や従者たちが多すぎて邸の周辺の数坊
(坊とは市街の一区画) にあふれ、けばけばしさで人の目を奪ったという。そんなとき、楊サは客に、 「おれたちの一族は、もともと名もない貧乏人だった。それがここまで来たわけだが、終わりを全う出来ないかもしれん。だから、今のうちに享楽の限りを尽くしておくに若かずだ」
と語った。 楊氏五宅のおびただしい從僕たちは、一宅ごとに決まった色の服を着用していた。だから、全部集まると錦の織物のように見えたという。 楊氏五宅をふくめての一族の栄耀栄華ぶりについては、宋初の楽史が書いた
『楊太真外伝』 に詳しい。いまはこれ以上縷々述べるのはやめるが、当時の俗謡を二つあげておこう。 |
生女勿非酸、生男勿歓 | (女が生まれたとて悲しむな。男が生まれたとて喜ぶな) |
男不封候、女作妃君、看女却是門? | (男がえらくならずとも、女がお妃さまになりゃあよい。乗っておくれよ玉の輿) |
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前者の俗謡は、白楽天の 「長恨歌」 に見える次の二句へと昇華した。 |
遂に天下の父母の心をして |
男を生むを重んぜず女を生むを重んぜしむ | |
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現代視点・中国の群像 楊貴妃・安禄山 旺文社発行 執筆者:中野
美代子 ヨリ |