二十五歳の時、天下に名をあげようとの大望を抱いて故郷を出た李白は、その三年の後の開元十六年 (728)
、二十七歳の頃、どのようにして知り合ったのかは不明だが、安陸 (アンリク)
(湖北省) の名家で、初唐の高宗時代に宰相であった許圉師 (キョギョシ)
の孫娘と、最初の結婚をする。この頃すでに許圉師は亡くなっていたが、とにかく名家の婿になったわけであり、その後ほぼ十年の間はこの地にとどまり、一男一女をもうけた。
ただ、その間にただ安閑と過ごしていたのではなく、この安陸地方の有力者にあてた、 「安州の裴長官にたてまつる書」
「安州の李長史にたてまつる書」 「韓荊州に与うる書」 などの手紙が残っているが、これは名門の婿という立場を利用して大いに自分を売り込み、就職運動をしているのである。
安陸では、ここを中心として各地に遊んでいるが、同じ湖北省の襄陽 (ジョウヨウ)
に遊んだ際、そこで隠棲していた先輩の詩人・孟浩然 (モウコウネン)
と交わりを結んだ。
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孟 浩 然 に 贈 る |
吾愛孟夫士
風流天下聞
紅顔棄軒冕
白首臥松雲
酔月頻中聖
迷花不事君
高山安可仰
従此揖清芬 |
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吾愛す孟夫士
風
流天下に聞こゆ
紅顔軒冕
を棄て
白首松雲に臥
す
月に酔うて頻
りに聖に中
り
花に迷うて君に事
えず
高山安
くんぞ仰ぐべけん
此より清芬
を揖
す |
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黄鶴楼に、孟浩然の広陵に之
くを送る |
故人西辞黄鶴楼
烟花三月下楊州
孤帆遠影碧空尽
惟見長江天際流 |
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故人西のかた黄鶴楼
を辞し
烟
花三月楊州に下る
孤帆の遠影碧空
に尽き
惟
だ見る長江の天際に流るるを |
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これらの詩は、この頃の作である。
ところで、安陸における就職運動は思わしくなかったようで、開元二十三年 (735)
、李白は妻子をそこに残したまま、北のかた太原 (タイゲン) (山西省)
に行き、ここで郭子儀 (カクシギ) と知り合った。郭子儀はのちに安禄山の乱を平らげた名将となる人物であるが、まだこの頃は一兵卒であり、過失を犯して罰せられそうになったところを、李白がとりなして罪を免れさせたが、このことが後に李白自身の運命に大きくかかわってくることになる。
まもなく太原を去った李白は、任城 (ニンジョウ) (山東省)
に行き、ここでまた一女性 (名はさだかではない) と結婚し、一男一女が生まれたとされている。実はこれより前に、劉
(リュウ) 氏という女性と結婚し、その女性とは間もなく別れたといわれている。
しかし先に記した郭沫若氏の 『李白と杜甫』 によれば、最初の妻の許 (キョ)
氏は早く死に、彼女の生んだ二人の子供を伴って旅に出た李白は、南陵
(ナンリョウ) で子供を人に預けた。許氏の死後に劉氏と結ばれたが、この女性は腰が軽く、間もなく離別し、更に娶った山東の婦人というのは、実は再婚の相手ではなく、子女の世話を頼んだ婦人の誤まりであるとしている。
これは李白を、妻子を平気で置き去りにするような人物と見るか、それとも家庭に対してきわめて真面目な性格だったと見るかによるであろう。ちなみに、李白はもう一度、従って通説では四人目、郭沫若氏の見解では三人目の女性と結婚している。その相手は則天武后の従姉の子である宗楚客
(ソウソカク) の孫娘である。
さて話を先に進めよう。
李白はそののちも、袞州 (山東省) の東北にある徂徠 (ソライ)
山の竹渓のこもり、孔巣父 (コウソウホ) ・韓準 (カンジュン)
・裴政 (ハイセイ) ・張叔明 (チョウシュクメイ)
・陶? (トウベン) らと縦飲酣歌 (ショウインカンカ)
し、道士・仙人の世界に遊んだ。
彼らは人々から “竹渓の六逸 (リクイツ) ” と称せられた。
「山中にて俗人に答う」 詩は、この頃の作と思われる。
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問余何意棲碧山
笑而不答心自閑
桃花流水?然去
別有天地非人間 |
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余に問う何の意ありてか碧
山に棲むと
笑って答えず心は自
ずから閑
かなり
桃花流水?然
として去る
別に天地の人間
に非ざる有り |
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さらに江蘇・安徽・浙江と南下した李白は、天宝元年 (742)
四十二歳の時、会稽 (カイケイ) (浙江省) 山中の?渓 (センケン)
で、道士の呉? (ゴイン) と親しく交わったが、その呉?
(ゴイン) が玄宗に召されて都の長安に上り、帝に李白を推薦してくれたので、その年の秋、召し出され李白は、はれて上京することになった。ようやく運が向いてきたわけである。李白の得意や、知るべきである。 |
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現代視点・中国の群像 楊貴妃・安禄山 旺文社発行 執筆者:巨勢
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