高 僧 伝  『 空  海 』
〜〜 無 限 を 生 き る 〜〜
著者:松永 有慶 発行所: 集英社 ヨリ
第三章 入 唐 求 法

(二) 文書が危機を救う

赤岸鎮せきがんちん にいても、遣唐使の役目は果たせませんので、第一船はもう一度綱を解いて、役所のある州都の福州へ回航させられます。福州には閻済美えんさいび という長官が着任することになっていたのですが、藤原大使の乗った遣唐使船が回されたときには未だ着任していなかったというような事情もあって、なかなか上陸の許可がおりませんでした。その上国書 (大使であるという証明書) も、持っていないのです。当時の遣唐使船は、そういう証明書を持たずに行ったようです。このため、海賊船とか密輸船と間違われたのでしょうか。 「御遺告ごゆいごう」 などの記録によりますと、船を封鎖して、湿った砂の上に座らせ、船に戻ることを許さなかった。とあります。罪人扱いをされたようです。
こうした状況の下に大使は困り、いろいろ思案した末、空海に何とかしてくれと頼んだのでしょう。ここで空海の出番がやって来たというわけです。空海はさらさらと手紙を書きました。その手紙が 「性霊集しょうりょうしゅう 」 の巻第五に 「大使のために福州の観察使かんざつし に与うる書」 として現在残っています。
これは、藤原大使のために福州の観察使かんざつし閻済美えんさいび に対して出した嘆願書です。この嘆願書は非常な名文でした。中国は文章を尊ぶ国ですから、こういう名文を書いた人が船にいるということがわかると、それまでの扱いがいっぺんに変わってしまいました。これほどの文章を書ける人がいるグループがあやしい者であるはずがない、というわけで、疑いが晴れたのです、
ところが、空海だけが足止めを食ってしまいます。空海は仏教の勉強をしに中国へ来たのであって、そのために命がけで海を渡って来たのに、上陸を許されたとたんに足止めを食ったのです。この理由はいろいろ考えられます。当時の中国は、地方の長官であれ中央の役人であれ、文章というものが自分に政治的な運命を左右しましたから、文章の上手な人間を自分の部下に抱えておくと出世がしやすかったということがあります。そこで閻済美えんさいび は空海の文章力を買って、自分の部下にしたかったのだろうという説もあります。
あるいは、当時の遣唐使というのは、中国へ着くと、中国政府の費用で生活しますから、誰も彼もさあいらっしゃい、というわけにはいかず、おのずから制限がありました。そうなると、空海は留学僧るがくそう で行ったとはいえ、おそらく資格が不十分で、遣唐使にとって必要な人間とは認められなかったので足止めを食った、ということも考えられます。
そこで、あわてた空海は今度は 「福州の観察使かんざつし入京につけい せんと請うけい 」 というものを書きました。これも「性霊集しょうりょうしゅう 」 の巻第五に収められています。
「私はあまり才能のない者ですが、仏教の勉強をするためにこの中国へやって来たのです。あなたは非常に徳が高く、仁のコは遠近に知れわたっており、老若男女みなほめたた えています。また外には俗風を示し内には仏法を手厚くもてなす方だと聞いております」 と相手の自尊心をくすぐり、 「そして私は名コをたずね一生懸命勉強するためにこの唐の国に来たのです、なにとぞ都に入ることを許してください」 と自分の熱意を披瀝ひれき します。人に物事を頼む時は、こういう頼み方をするとよいという見本のような文章を書いたのでした。おかげで、空海を遣唐使の一行の中に加えることが許されることになりました。
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高僧伝C 『空海』 〜〜無限を生きる〜〜 著者:松永 有慶 発行所: 集英社 ヨリ