ところが、最澄は、第二船の遣唐使と一緒に長安の都へは行かず、天台山に直行します。そして、道邃
という学僧が台州
に行っていた時に出会って、この人について天台の勉強をしました。さらに天台山へ登り国清寺
の行満
という高僧に戒を受けて、お経や論の収集を頼んでいます。
こうして天台山において、法華経、禅、戒律の三つの勉強をしてくるわけです。その勉強を終えると、翌年三月二十五日に明州の船付き場へ戻って来ました。ところで遣唐使船が帰るまでに一ヶ月ほど暇がありました。最澄というのは大変真面目な人ですから、一ヶ月でも無駄にするのを惜しみ、その間に、越州
(現在の紹興
) に行って、竜興寺
の順暁
について密教を勉強しました。
順暁の密教がどういうものであったかというと、最澄が受けてきた印信
(密教を授けたという証明書) などから、胎蔵系
のものだったのではないかと考えられていますが、金剛界系の密教も混じっていたという説もあり、いずれにしても、あまり正式な密教ではなかっただろう、ということがいえます。
ともあれ、いちおうは密教を勉強した最澄は、五月十八日、遣唐使の一行とともに日本へ帰ることになります。中国で密教を勉強してきたということは、後の最澄の生涯に、思いがけず非常に大きなインパクトを与えたのでした。
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