一方、空海の方は、二月のはじめに、渤海
の王子にあてた大使の手紙を代筆していることなどから、このころは未だ遣唐使とともに行動していたと思われます。
一月二十三日に、皇帝のコ宗
が亡くなりました。このような朝廷のああただしい動きの中で、遣唐使は二月二十一日に長安を出発し、明州にいって、五月に、勉強を終えた最澄といっしょに日本に帰りました
空海は大使と一緒の時は宣陽坊
という官舎にいたのですが、大使が日本に帰るといよいよ落ち着き場所がなくなり、西明寺
というお寺に移ります。このお寺は八十年ほど前、善無畏三蔵
も住したことがあり、空海が移ったときは、永忠
という日本人の坊さんがずっと住みついて、三十年ばかり勉強していました。このお寺を宿舎とした空海は、いよいよ本格的に密教の勉強を始めるのです。
空海は非常に用意周到な人でした。のっけから密教を学んだのではなく、まず、インドの坊さんについて、日本で勉強できなかったインドの宗教、従来の仏教、あるいはサンスクリット語などを徹底して学ぼうとしました。さらに、醴泉寺
というお寺にいた、カシミール出身の般若三蔵
という坊さんについて、仏教の勉強をしました。般若三蔵
は、華厳経
四十巻とか大乗理趣六波羅蜜経十巻、あるいは梵夾
(サンスクリット原典) 三口 (三点)
、守護国界主陀羅尼経十巻などを空海に授けました。いずれも三蔵が新たに翻訳した経典ですが、自分は老齢で日本に渡ることが出来ないので、空海に託したというわけです。
空海自身が書いた 「付法伝
」 によると、般若三蔵のほかに牟尼室利三蔵
について、インドの宗教を勉強した、とあります。
当時の長安の都は、シルクロードの起点であり、西方の文化がひんぱんに入ってきました。国際色豊かな文化都市で、宗教もゾロアスター教、マニ教、景教などがはやっていたようです。
紀元前六世紀にペルシャに起こり、南北朝ころに中国に入ったドロアスター教は?教
といって、アヴェスターという聖典を信じる一神教です。マニ教は漢字で摩尼教と書き、ペルシャで三世紀ころ起こり唐代に中国に入った、善を光明、悪を暗黒と説く二元論的な思想を持つ宗教です。景教というのは、キリスト教の一派ネトリウス派なのですが、こういう宗教も、すでに当時の長安の都には伝わっていたのです。
長安は現在の西安ですが、ここに碑林
という、碑文ばかり集めた所があり。そこに 「大秦
景教流行中国碑」 という碑文があります。その碑文には、長安で景教が流行したことが記されておりますが、その写しは近世になってゴールドン夫人が高野山の奥の院の墓地の中に建てています。
景教のお寺の大秦寺
というところに景浄
という坊さんがいて、この人は、般若三蔵といっしょに 「六波羅
蜜教
」 という経典を漢訳しています。おそらく六波羅蜜教というのは中央アジアの言語で書かれたものであっただろうと思われますので、こうして何人かで協力し合って翻訳しなければならなかっらのでしょう。
当時の長安の都の仏教には、法相、三論、天台、浄土、禅、律などの教えがすでに起こっていました。また文学では、韓退之
や柳宗元
。詩では白楽天
などが活躍し、書でも絵画でも優れた大家が大勢いたようです。
このように、文化的にも宗教的にも、百花繚乱の時代に空海は長安に留学しておりました。 |