高 僧 伝  『 空  海 』
〜〜 無 限 を 生 き る 〜〜
著者:松永 有慶 発行所: 集英社 ヨリ
第三章 入 唐 求 法

(六) 出 会 い の 不 思 議

こうした準備の学習を終えた空海は、いよいよ長安一の、つまり世界一の密教の師匠を訪ねます。その師匠というのが青竜寺しょうりゅうじ の東塔院に住む恵果けいか 和尚かしょう です。
青竜寺がどのへんにあったか、遺跡がはっきりわからなかったのですが、最近の調査でだいたい推定出来るようになり、空海御入定ごにゅうじょう 千百五十年の御遠忌ごおんき を記念して、四国四県がその場所に空海の碑を建てました。さらに真言宗の各派が共同して、恵果空海紀念堂を新たに建造しました。
空海自身の記録 「御請来目録ごしょうらいもくろく 」 によると。
城中を名コめいとく うに偶然ぐうぜん として青竜寺しょうりゅうじ東塔院とうとういん和尚かしょう 、法のいみな恵果けいか阿闍利あじゃりたてまつ
とあります。この 「偶然といて」 という言葉を、西明寺さいみょうじ の坊さんたちといっしょの歩いていたところ青竜寺に着き、たまたまそこで恵果に出会った、というふうに単純に理解する人もあります。しかし、偶然に出会った、というのではおかしいのです。なぜならば 「御請来目録」 を見ますと、
空海に西明寺の志明しみょう 談勝だんしょう 法師ほつし 五六人と同じく和尚かしょうまみ ゆ。和尚たちま ちに見て笑みを含み喜歓きかん して告げていわ く、我先よりなんじ が来ることを知ってあい 待つことひさし。今日相見ること大いに し大いに好し。報命 きなんと欲するに付法ふほう に人なし。すべからく速やかに香花こうけべん じて灌頂壇かんじょうだん に入るべし。
とあり、初対面にもかかわらず、恵果が空海に、おまえが来るのは遅かった、おまえの来るのを待っていたぞ、といい、自分の命はもう先が短いから、早くおまえに法を伝えたい、早速灌頂壇かんじょうだん に入れ、といいます。空海という名が、ずっと以前から恵果の耳に入っていた、というわけです。
空海の学んだ醴泉寺れいせんじ では、貞元ていげん 二十年 (804) つまり空海が日本を出発した年に、義智ぎち という人のために金剛界の大曼荼羅まんだら を建立しました。そして、恵果が雨乞あまごい いをしたときに、般若三蔵はんにゃさんぞう も参加しています。このことは、空海の 「秘密ひみつ 曼荼羅まんだら教付法きょうふほう でん 」 によってわかります。般若三蔵と恵果和尚とは以前から親交があり、空海が般若三蔵に師事したころから、空海の偉才ぶりは、恵果の耳に達していたことでしょう。それだけでなく、中国に着いたときから、優れた文章で中国の人をおどろかせていた空海ですから、藤原大使一行の口から、その名前は長安の都に鳴り響いていたのではなかいあと思われます。ですから、ここで使われている 「偶然として」 というのは、 「たまたま」 という意味ではなくて、 「宿命的にここに着いた」 という意味に受け取れると私は考えます。
空海の訪問後まもなく、恵果は無くなりますが、その前に 「自分の教えることはすべて教えた、早く日本に帰って真言密教を伝えて欲しい」 と、空海は密教の日本での流布を託されています。そして、亡くなる際に、恵果は空海の夢枕に立って、 「おまえが日本に帰ったら、今度は私が弟子になろう。お互いに師匠になり弟子になって、法を長く伝えていこう」 といいました。空海自身が書いたものにも、自分と師匠の間には、前世からはりめぐらされた目に見えない糸があって、それに引かれていった、というような記述があります。つまり、空海もまた、二人の出会いを非常に宿命的なものと感じていた、ということが、この 「偶然として」 という言葉に表れているのではないかと思います。
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高僧伝C 『空海』 〜〜無限を生きる〜〜 著者:松永 有慶 発行所: 集英社 ヨリ