城中を歴
て名コ
を訪
うに偶然
として青竜寺の東塔院
の和尚
、法の諱
は恵果阿闍利
に遇
い奉
る |
|
とあります。この 「偶然といて」 という言葉を、西明寺
の坊さんたちといっしょの歩いていたところ青竜寺に着き、たまたまそこで恵果に出会った、というふうに単純に理解する人もあります。しかし、偶然に出会った、というのではおかしいのです。なぜならば
「御請来目録」 を見ますと、 |
空海に西明寺の志明
談勝
法師
等
五六人と同じく和尚に見
ゆ。和尚乍
ちに見て笑みを含み喜歓
して告げて曰
く、我先より汝
が来ることを知って相
待つことひさし。今日相見ること大いに好
し大いに好し。報命竭
きなんと欲するに付法
に人なし。すべからく速やかに香花
を弁
じて灌頂壇
に入るべし。 |
|
とあり、初対面にもかかわらず、恵果が空海に、おまえが来るのは遅かった、おまえの来るのを待っていたぞ、といい、自分の命はもう先が短いから、早くおまえに法を伝えたい、早速灌頂壇
に入れ、といいます。空海という名が、ずっと以前から恵果の耳に入っていた、というわけです。
空海の学んだ醴泉寺
では、貞元
二十年 (804) つまり空海が日本を出発した年に、義智
という人のために金剛界の大曼荼羅
を建立しました。そして、恵果が雨乞
いをしたときに、般若三蔵
も参加しています。このことは、空海の 「秘密
曼荼羅教付法
伝
」 によってわかります。般若三蔵と恵果和尚とは以前から親交があり、空海が般若三蔵に師事したころから、空海の偉才ぶりは、恵果の耳に達していたことでしょう。それだけでなく、中国に着いたときから、優れた文章で中国の人をおどろかせていた空海ですから、藤原大使一行の口から、その名前は長安の都に鳴り響いていたのではなかいあと思われます。ですから、ここで使われている
「偶然として」 というのは、 「たまたま」 という意味ではなくて、 「宿命的にここに着いた」 という意味に受け取れると私は考えます。
空海の訪問後まもなく、恵果は無くなりますが、その前に 「自分の教えることはすべて教えた、早く日本に帰って真言密教を伝えて欲しい」
と、空海は密教の日本での流布を託されています。そして、亡くなる際に、恵果は空海の夢枕に立って、
「おまえが日本に帰ったら、今度は私が弟子になろう。お互いに師匠になり弟子になって、法を長く伝えていこう」
といいました。空海自身が書いたものにも、自分と師匠の間には、前世からはりめぐらされた目に見えない糸があって、それに引かれていった、というような記述があります。つまり、空海もまた、二人の出会いを非常に宿命的なものと感じていた、ということが、この
「偶然として」 という言葉に表れているのではないかと思います。 |
N
e x t |