空海が青竜寺の東塔院へ行って恵果の弟子となったのは、だいたい五月ごろだったと考えられます。そして六月上旬に、
「学法
灌頂壇
に入る。大悲
胎蔵
大曼荼羅
に臨み花投
」 した、つまり、いわゆる学法
灌頂を受けたわけです。この灌頂を受けるときは、しきみの花をもって目隠しをして手を引かれながら道場に入ります。その真っ暗な状態で、胎蔵曼荼羅を下に敷いてあるところへ連れていかれて、しきみの花をその曼荼羅の上へ落とすのです。そのとき、花がどの仏の上に落ちたかということによって、自分の守り本尊を決めるわけです。そして、
「五部の灌頂に沐
し、三蜜
の加持
を受く、胎蔵
の梵字
義軌
を受け、諸尊
の瑜伽
観智
を学ぶ」 とあります。
七月上旬に、今度は金剛界の大曼荼羅に臨み、五部の灌頂を受け、やはりここで投花しています。
空海は胎蔵・金剛界の両部の灌頂のいずれの時も、大日如来の上に花を落としました。これは非常に珍しいことです。span>恵果和尚は、師匠の不空
から灌頂を受けたとき、転法輪
菩薩
の上に花を落としたので、不空は恵果こそ自分の後を継いで法を転ずる、つまり密教の宣布につとめる人物だと大いに喜んだということです。空海は、両方とも毘盧
遮那
如来
つまり大日如来
の上に落としたということで、師匠から遍照
金剛
という灌頂の名前をもらいました。遍照というのは遍
く照らす、つまり大日如来と同じ意味です。金剛というのは堅固な悟りの心を持つ者という意味です。
さらに八月上旬に、空海は伝法
阿闍利
位
の灌頂を授かります。このことは、
「是の日五百の僧斎
を設けて普
く四衆
を供
す。金剛頂
瑜伽
、五部
真言
、蜜契
、相続
を受け、梵字
梵讃
を学す」 と書いていますが、これで恵果から空海に対する密教の授法は完全に終わるわけです。瓶
から瓶へ水を移すように、インドから伝わった正系の密教が空海に伝えられたのです。
こうしてインドから伝わっていた密教が、日本からの留学僧
の空海に伝えられました。またそれだけでなく、日本へ持ち帰るために、両部曼荼羅を当時一流の画家であった丹青
、李真
など十余人を使って写させたり、二十人余りの写経生を雇って密教の経典を写させたり、道具を作らせました。密教というのは、言葉で伝えるのではなく、灌頂という儀式によって伝えるものであるため、それにともなう大がかりな設備が必要となってきます、それを全部整えて空海は日本に持ち帰ろうとしたのです。
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