灌頂というのは、もともとインドで王様が王位を次の王様に授ける時の儀式です。いわゆる即位式のことです。この即位式で何を行うかというと、四海の王
(四つの海を支配する王) になるという意味で、周囲の四つの海から集めてきた水を一つの瓶
に入れ、先代の王が、次の王の頭に注ぎかけるのです。そういう儀式をして、王の位が次の人に移ったということを、はっきりさせたのです。
密教は、その時代の人の使っている物や形式をそのまま取り入れて、それに新しく意味づけをしていくというのが非常に得意なのです。いままで行われてきたものを全部捨ててしまって新しいものをつくりだすというのは、密教の本来のやり方ではありません。現在やっていることをそのまま真似して、その意味を変えていくことが本旨なのです。ですから、王室の灌頂の儀式を、そのまま密教の法灯
を次に伝える宗教儀礼として使っております。
こうして、空海は恵果
という立派な師匠について、師匠の持っているもの全てを授かりました。両部の灌頂などというものは、なかなか授けてもらえるものではありません。それを授かることが出来た空海という人が、優れた素質を持っていたのだということがわかります。そしてそれだけではなく、日本での陰の時代、冷や飯の時代に準備万端調え、そういった実が熟して、まさに触れなば木から落ちんというとき、その落ちる直前に、恵果という優れた師匠にめぐりあえた、ということがいえます。
こうして、六、七、八月と空海に灌頂
を授けた後、十二月十五日に恵果
は亡くなりました。 葬儀は翌年一月十六日に行われ、十七に孟村
の竜原
大師の塔のそばに葬ったという記録があります。そこで空海は、恵果の生前の偉業を讃
える碑文を書きます。この碑は現在では残っていませんが、その文章は 「性霊集
」 の巻第二に収められています。恵果に長くつき従っていた弟子たちが沢山いるのを差し置いて、異国の僧である空海がこの碑文を書くというのは、大変な名誉です。胎蔵・金剛界両部の灌頂を受けたというだけでも異例であるのに、師匠の追悼文まで任されたということは、恵果の沢山いた弟子の中で一番弟子になっていたことをしめすものです。やはり空海の優れた才能が弟子の間でも評価されたのでしょう。
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