空海が恵果など中国の密教者たちから学んだ肝要事は、宗教が単に理念を弁じ立てるのではなく、その理念を、密教が秘めている智慧を縦横無尽に働かせて、実践に移すことであった。空海が満濃池など、土木工事を指導したり、綜芸種智院を造って民衆教育に努めたりしたのも、その一環だったに相違ない。実際に人々の役に立つこと、それが空海の行動原理だったのであり、そうした空海であったればこそ、貴賎を問わぬ多くの人々から、時代を乗り越えて
「お大師様」 として慕われ続けてきたのだ。
ただ、空海が不空や恵果に比べて、やや恵まれていたのは、日本は唐と違って、強力なライバルが存在しなかった点であろう。唐の場合、密教はこの大陸の固有信仰であった道教と熾烈な争いを演じ、一時は不空のたぐい稀な霊異能力によって覇権を得たものの、彼の後継者にその種の能力を発揮し得るだけの人材が現われなかったことも響いて、最終的には敗北を喫し、百年を経ずして密教は没落する。空海は、むしろ、競合関係になり得る勢力を巧みに懐柔し、己の密教に組み入れながら、着々と地歩を築いていったのである。特に、日本古来の神々を密教に帰依させ、時には密教の守護神の役割を与えたことは、密教が日本に根付く上で、非常に大きかったと評してといだろう。
友人の彫刻史家浅井和春氏の研究によれば、もともと目には見えざる日本の神々を、仏像を手本に造形化に導いて、目に見えるものとして表現する道を開き、日本で神像が誕生するきっかけをつくいったのも、どうやら空海その人らしい。
この神々との友好関係を築いたことも、空海の独創的な営みの一つと考えて構わないが、彼の独創にまつわる最も重要な事柄は、
『大日経』 の世界と『「金剛頂経』 の世界を、宇宙永遠の真理を二つの別の方向から開示した、全く等価の存在とみなして、両者を完全に統合する壮大なシステムを、思想の面でも修行法の面でも、作り上げたことである。これが両部不二であり、胎蔵・金剛界から成る、いわゆる両部
(両界) 曼荼羅にほかならない。曼荼羅そのものについては、曼荼羅の項で論ずるから、これ以上詳しくは触れないが、この両部不二という発想を最初に思い付き、さらにその思い付きを実体化させたのは、一体だれだったのか、が問題である。
『大日経』 『金剛頂経』 は、インドでは、時代は半世紀ほど、地域はかなり異なるところで、それぞれ個別に成立したとされる。近年、東インドのオリッサ地方で両経に基づく曼荼羅を並置した寺院跡が発掘されてはいるが、両部不二の考え方が広まっていたとは言い難い。中国においても、この両者をめぐる状況は、単純ではない。多少意外かも知れないが、不空は
『金剛頂経』 も至上至高の教えと受け取り、 『大日経』 には低い評価しか与えていない。また、不空に先行する善無畏は
『大日経』 のみ、中国に請来したにすぎない。それで、この両者を統合させることが可能であった人物となると、俄然、恵果の名が挙げられることになる。しかし、恵果自身は著書を一切残さなかったので、その真偽は確かめようがない。
|