私は、両者の統合にかかわったのは、やはり恵果であったと思う。そのきっかけがインドからもたらされたとしても、である。二つで一つという発想は、中国に古くからあった陰陽の考え方に近い。恵果は
『金剛頂経』系の密教を師であった不空から、 『大日経』 系の密教を玄超という密教僧から伝授されたと記録は語るから、中国において両者の統合を創造し得た、ほとんど唯一の人物たることに間違いはなく、様々な状況証拠がそれを裏付ける。もっとも、恵果は弟子達に密教を伝えるにあたり、皆に両部不二の前提となる金胎両部の相承を授けたわけではなく、俊才ぞろいと讃えられた弟子たちの間でも、両部の相承を授けられた者は、ごく少ない。その一人が、しかも最後の一人が、空海だったのである。
こう考えてくると、両部不二の密教を企画したのは恵果だった可能性が圧倒的ではあるが、それをさらに深く発展させたのは、ほかならぬ空海だったのではないか、との思いが浮かんでくる。少なくとも、現実に両部不二の密教が機能し得たのは日本だけであった。中国大陸や朝鮮半島の様相を見る限り、恵果の両部不二の密教は、いまだ確固たる段階に達していなかったのではないか。逆に言えば、空海によって初めて両部不二の密教が、教理面でも実践面でも確立されたと考える必要があるようなのだ。
この点を捉えれば、空海によって東南アジアの密教が完成されたと結論を下すことも出来る。空海たちが相承したのは、いわゆる中期の密教に該当する。インドでは、そののち密教は更なる発展を遂げ、後期密教の段階に突入したが、中期密教と後期密教のいずれが、より優れた宗教であったか、は容易に決し得ない。事実だけを言うのなら、東アジア社会は後期密教の導入を拒絶した。多分、その理由は、後期密教に特有な性にまつわる行法の駆使にあったと想像されるが、先程指摘したように、社会との関係において、両者に無視できない相違があったことも大きかったに違いない。つまり中期密教には、いまだ大乗仏教の衆生救済の理念が色濃く残り、それ故、社会に対しては、ある意味で開かれた態度をとったと言える。しかし後期密教に、それはなかった。だから仮に、大乗仏教の理念に高い価値を認めるなら、中期密教に軍配をあげてもさしつかえない。空海が大乗密教の理念を抱いた密教者であったとすれば、話の辻褄は合う。
最後にもう一点のみ、述べておきたい。それは、中期密教は空海によって悟りへの道を整備されたのではないか、ということである。これは、唐時代の密教者が置かれた社会環境、そして中国人一般の宗教観に起因しているのかもしれないが、不空以下の密教には悟りという観点がやや希薄な感が否めない。このことは不空たちに悟りへの志向が少なかったことを必ずしも意味しない。むしろ、中国が密教にそうした方向をあまり求めなかったと考えた方がよい。例えば、宋の初期に書かれた仏教史の書物である賛寧
(919〜1002) の 『宋高僧伝』 や 『大宋僧史略』 を読むと、彼らが密教に期待していたのは、もっぱら呪術の行使であり、日本密教で宣伝される
「即身成仏」 など、仏教本来の中心的な課題たる悟りの問題がほとんど言及されていない。
だから、日本密教に悟りへの方法が微に入り細に入り説かれているのも、ひとえに空海のなせるわざと思わざるを得なくなる。どう過小に評価しても、不空や恵果の中国密教にあっては、いささか影の薄かった悟りの問題を、再び俎上に乗せ、かつそのための修行法を整備充実させたのは、やはり空海その人だったのである。別の表現で言うならば、これこそ、空海による闇の力の復活であった。
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