明呪は言語をヴィディヤーといい、漢訳では、その意味をとって明呪と訳出した。
この場合、明とは学問的科学的な智慧の謂。呪は呪法を指す。要するに、ヴィディヤー=明呪とは、学問的科学的な智慧+呪法であり、古代インドでは、学問・科学と呪法が一体のものとして、いまだ分かれていなかった事実を示唆する。明呪に対して、ブッダは二つの異なる態度を示した。呪法としての明呪は否定し、学問的科学的な智慧としての明呪は、己の教えのエッセンスを表現し得るとみなして、これを認めたのである。学問的科学的な智慧としての明呪の典型例は、あるいは聖音オームであり、あるいは般若波羅密がそうである。もっとも、ブッダとても呪法としての明呪を完全に拒否したのではない。蛇除けの呪法などは暗暗裡に必要と認めて黙認したらしく、このことが呪法の発展に道を開く結果につながった。
陀羅尼はサンスクリット語の発音ダーラニーをそのまま漢字に写したもので、意味をとって総持とか、ただ単に持と訳されることもある。本来はヨーガの行法の一つに由来し、心を一定の場所に結び付けること、つまり精神の集中統一を意味していた。仏教でも、精神の動揺を静め、三昧に入る手段として採用されたといわれる。具体的には、真言と同じく、特定の一節を無限の回数にわたり唱え続け、その行為に意識を集中しつつ、やがて自他の区別を超えた神秘の領域に忍び行ってゆくことになる。この陀羅尼による精神の集中統一の果てに開ける三昧の境地に関して、特筆すべきは、この境地が記憶の非常な向上を可能性を秘めている点だ。それは、集中され統一された精神状態が記憶に適している、といったような誰でも思いつく次元のものではないようで、どうやら、人間の脳の深海に眠っている過去の記憶をすべて解放する働き、言い換えれば、人類が、一個人の枠を越えたところで、膨大な年月をかけて蓄えてきた智慧ことごとくを想起することらしい。
以上、真言・明呪・陀羅尼を眺めてみたが、この三者は次第に統合され、統合されることでさらに大きな機能を持つことになる。そして、最終的には、密教の根幹をなす最重要のコンセプトに変ずる。比較的初期の瑜伽唯識学派が著した書物で、ヨーガの境地と菩提道実践の関係を論じた大著
『瑜伽師地論菩薩地』 (四〜五世紀頃成立) の 「菩提分品」 は、統合後の真言ないし陀羅尼の機能を四つに分けている。
第一は、経典の章句を忘れない機能。第二は、経典の内容を忘れない機能。第三は、呪術的な機能。第四は、大乗仏教の大乗仏教たるゆえん、即ち
「空性」 を体現する機能である。
第一と第二の機能は、真言と陀羅尼の本来の機構が合体してものとみなしてよいだろう。第三の機能は、明呪のそれに由来する。問題は第四の機能だが、もう少し詳しく説明すると、これは、それら真言ないし陀羅尼自体が実は無意味であることを意味する機能、あるいは、それら真言ないし陀羅尼にはいかなる意味も成就されていないと修行者に悟らしめる機能なのである。
この説明でも、何が何だかよくわからないに違いない。では、こう解説してみよう。この世にありとしあるものは、たとえどんなに無意味たらんとしても、名前=言葉を持つからには、何らかの意味を持ってしまうことから免れない。そこで、言葉、この場合には真言や陀羅尼を無限の回数唱え続けてゆくことで、言葉の持つ意味機能を振動させ、ついには解体に追い込み、その彼方に
「空性」 を実感させるのだ。 |