空 海 を 知 る キ ー ワ ー ド
監修:山折哲雄 エッセイ:上山春平 解説文:正木 昇 『空海の世界』 佼成出版社 ヨリ


 

真 言 其の三

しかし、これでも空海が 『般若心経秘鍵ひけん 』 の中で 「真言は不思議なり 観誦すれば無明を除く 一字に千理を含み 即心に法如を証す」 といった真言の次元には、とても達していな。空海の言う真言とは、読んで字の如く、まさに真理を語る言葉であり、結局、大日如来の言葉に他ならないからだ。したがって、ここから先は、六世紀以降、インドに花開いた密教が開発した領域に属することになる。
もっとも、そうは言っても、真言にこの上なく深い意味を見いだす傾きは、原初以来、インドに巣くっていた独特の言葉観に発しており、いま少し射程を絞れば、明呪に込められたブッダの智慧のエッセンスという考え方が展開した結果と解釈することも出来る。少なくとも、そうした傾向が仏教哲学の枠組みの中で思うさま繰り広げられなければ、空海の意図する真言は登場してこなかったに違いない。
これは全く私の個人的な見解ではあるが、空海の言うところの真言には、それらインド以来の煩瑣はんさ とも映る言葉の哲学、ないしは言葉の形而上学に明らかな観念論の地平をはるか遠く越え出たものがある。それを何と形容したら良いのか、なかなか的確な表現が思いつかないけれも、あえて言えば、身体の言葉とでも表すしかないような部分が存在する。つまり、言葉を単に観念の次元で考えるのではなく、言葉を発する人間の肉体の運動の次元にまで遡及して、言葉を捉えようとする志向性である。
例えば、私たちが言葉を発する時、その言葉は声帯の振動によって初めて言葉としてこの世に誕生してくる。その時の声帯の振動まで、欠くべからざる本質的なものとしてその内に組み入れるような言葉観を、空海は考えていたのではないか。
この考え方は、多分 「空性」 を悟らしめる真言や陀羅尼の機能に類似しているが、空海の意図する真理を語る言葉たる真言とは、それらに比べてより肉体の領域を大きく評価するところに立脚しているように、私は思える。
真言密教の究極の真理は、私自身が大日如来なのだ、という認識、いや体得に尽きるであろう。とすれば、肉体を振るわせて、今、真言を唱え続けているこの私は、もしかしたら、真言そのものを体現していることになるのではないか。真言を唱えるから大日如来なのか、大日如来が唱えるから真言なのか、はたしてそのいずれかさえ判然としなくなる境地、すなわち霊と肉が融合してしまうような境地こそ、真言密教の徒が目指す至高のそれなのに相違ない。しかも、そうした境地は、日本人が古来以来携えてきた 「言霊」 の思想に見事に合致するものだった。
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