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かくて五十日間ないし百日間で、陀羅尼の読誦が満ちたならば、牛蘇加持法という秘密の行法を遂行する段取りになる。その日は日月蝕にあたることが条件で、牛乳を煮つめて作った牛蘇、今日のチーズかバターのようなものを銅製の器に入れ、密教寺院で護摩を焚くときに用いられる牛木を以て、その牛蘇を攪拌しつつ、例の陀羅尼を唱えてゆく。そして牛蘇に気・煙・水のうちいずれかの相が生ずれば、その時、求聞持法は成就されたとみなされ、神薬となった牛蘇を服用すれば、たちどころに抜群の記憶力を得て、限り無い智慧を獲得できると経典は綴る。
以上が虚空蔵求聞持法の大略だが、空海の場合、最後の牛蘇加持法を修めた形跡は見当たらない。既に指摘したごとく、修行の場が四国の山中あるいは海辺であった上に、行法の整備も充分に行われていたわけではない時代のことだから、それも無理はない。その代わりに、空海には口中に明星が飛び込む神秘体験が起こり、このことをもって虚空蔵求聞持法は見事に完遂されたのである。
牛蘇加持法抜きで虚空蔵求聞持法を修めた空海の体験は、見方を変えれば、牛蘇加持法などは、さほど重要な行法ではない事実を暴露している。ここで詳しいことを述べるだけに余裕はないが、古代インドの記憶力増大法には、大別して神秘の薬物に頼るものと、例の真言陀羅尼の霊力に頼むものの、二種類があった。善無畏の中国にもたらした
『虚空蔵菩薩能満諸願最勝心陀羅尼求聞持法』 は、この二種類の記憶力増大法を統合した性格を持っていたと考えるべきであろう。しかし、真の威力は間違いなく真言陀羅尼の方にあった。空海は、それを天才に特有の直観力で見抜いていたのだ。
記憶力の増大をはかる方法の開発は、何もインドだけにとどまらない。有名な例では古代ギリシャの 「ムネモテクニクス」
などが挙げられる。古代ギリシャでは、この技法はもともと修辞学の一部門として雄弁術にかわり、長い時間にわたり論旨を正確に展開すべく、場所と記憶を結び付けるテクニックの開発が主眼であった。言ってみれば、純粋な技術だったにすぎない。ところが、記憶に神秘を感じる傾向は、どうやら洋の東西を問わなかったらしい。やがて、この技法は人間の内奥に隠れている真理を探る任務を負わされる羽目になった。それには、当時、一世を風靡していたネオプラトニズムが重要な役割を演じたといわれている。
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