空 海 を 知 る キ ー ワ ー ド
監修:山折哲雄 エッセイ:上山春平 解説文:正木 昇 『空海の世界』 佼成出版社 ヨリ


 

即 身 成 仏 其の二

この問いに解答を与えたのは、中国に 『大日経』 を請来した善無畏であった。彼は解答に根拠を、自ら請来した 『大日経』 に求めた。もっとも、それは、かなりきわどい論理の、いわば綱渡りであった。
善無畏は 『大日経』 を音訳するにあたり、密教経典の常で、経典のみでは理解が難しいことを見越して、というよりも自説を正当化するためと考えた方が正確かもしれないが、 『大日経』 の注釈書たる 『大日経疏』 を著した。その巻二に曰く、

越世間三妄執出世間心生者、若以浄菩提心為出世間心、即是超越三劫瑜祗行。梵云劫跛、有二義。一者時分。二者妄執。若依常途解釈。度三阿僧祗劫得成正覚。若秘密釈・・・・ (中略) ・・・・。若一生度此三妄執、則一生成仏。・・・・
({ 『大日経』 の本文に書かれた} 「世間の三つの妄執を越えて、出世間の心が生ず」 とは、もし清らかな悟りを求める心を、煩悩にとらわれた世間を離脱した心とみなすならば、これはまさに三劫という無限に近い時間すら越えるような密教瞑想の修行に他ならない。サンスクリット語のカルパ (劫跛) には、二つの意味がある。一つは時間にかかわることであり、もう一つは妄執にかかわることであり。もし、普通の、つまり顕教の解釈によれば、三号かけてようやく正しい悟りを得ることになる。もし、密教の解釈によれば・・・・。もし、一生の間に、これら三つの妄執を乗り越えることができれば、そのまま今この生において、悟りを得ることができるのだ。・・・・)

善無畏が 『大日経』 で 「越世間三妄執出世間心生」 と訳出した一節は、チベット訳の 『大日経』 を参考に、今は失われてしまった原典たるサンスクリット文を復元すると、大乗仏教一般で主張されるごとく、 「 (世間の百六十心を) 三劫の間に越え終わって、初めて出世聞心が生ず」 となるはずで、善無畏の訳のように 「世間の三つの妄執を越えて、出世間の心が生ず」 とはならない。
なぜ、こんな事態が出来したのか、それを説明するために善無畏は 『大日経疏』 を書いたに違いない。彼の論拠はカルパに二つの意味が存在する点にある。そして、顕教ではカルパを時間的に 「劫」 、つまりは無限大の時間と解釈するのに対して、密教ではカルパを 「妄執」と解釈し、三劫ならぬ三妄執とみなし、此れを克服しさえすれば、即身成仏が可能だという方向に論理を展開してゆく。
本当にカルパに二つの意味が存在するのだろうか。答えは、否、である。kalpaはどこまでいっても劫であって、妄執の意味はない。善無畏はkalpaの前にviを付けてvikalpaすなわち妄執としたのである。種を明かしてしまえば、善無畏の行為はレトリックならぬトリックに類するものであろう。もう少し穏やかな形容なら、付会とでの言おうか。いずれにしても、原典には本来あり得ない。
しかし、善無畏が全く出鱈目にこんなことを言い出したわけではない。引用の・・・・・で表現した部分には、そのことが説かれているのだが、それを要約すれば、顕教の修行では三劫もかかることが、密教の修行では人間の一生に許された時間ほどで充分に遂行でき、それほど密教は優れているのだという結論に帰着する。

監修:山折哲雄 エッセイ:上山春平 解説文:正木 昇 『空海の世界』 佼成出版社 ヨリ
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