空 海 を 知 る キ ー ワ ー ド
監修:山折哲雄 エッセイ:上山春平 解説文:正木 昇 『空海の世界』 佼成出版社 ヨリ


 

即 身 成 仏 其の三

やや詳しく言えば、ここには 『大日経』 特有の心観が大きくかかわっている。 『第二著教』 は、心なるものを横と縦の両方向から、立体的に見る立場をとり、横方向に百六十の心が広がり、また縦方向にも、 「麁 (粗い) 妄執」 ・ 「細妄執」 ・ 「極細妄執」 のそれぞれ性質の異なる百六十の心が三層をなしており、悟りを得るためには、結局、これらをことごとく超越しなければならないと説く。密教の修行は、横方向のみならず、縦方向のこれら三層をも、限られた時間の中で突破し得る抜群の能力をもつが故に、即心成仏が可能なのだ、と善無畏は言う。
このあたりのいきさつを牽強付会の極みとみなすか、あるいは思想の新たな開拓と受け取るか、意見の分かれるところだろう。近代的な学問態度からみれば、善無畏のとった行動は、ほとんど弁護の余地はないが、相手が学問の俎上にのった哲学ではなく、生ける思想だった点には、充分以上の注意をしなければならない。歴史上、偉大な思想の誕生や変容を眺めてみれば、往々にして、偶然の誤解、意図的な曲解の双方が、複雑に絡み合って、思いも寄らぬ結果を招いているからである。
しかも、以上はあくまで理論上の話に過ぎない。仮に、密教の修行に、顕教ならば三劫も必要なことを、まさに人間の一生というごとく限られて時間内で為し遂げるだけの力が備わっていたとしたら、話はまた違ってくる。そして、事実、密教はその方向を目指していた。 『金剛頂経』 が、 『大日経』 にも増して、その点を明確に打ち出したことは、すでに名句の章で指摘したとおりだ。
この点にも関連して、 『大日経』 および 『金剛頂経』 を根本経典とする日本の真言密教の伝統において、即身成仏がどのように考えられてきたのか、それをみておきたい。言うまでもなく、日本の即身成仏思想は空海の 『即身成仏義』 に発する。それゆえ、空海の即身成仏観が真言密教の即身成仏思想の根幹を成していると思ってあやまたない。要するに、 『即身成仏義』 を読みさえすれば、それで、もうなすべきことは大半終わったと言うべきかもしれない。
問題はその 『即身成仏義』 である。空海が 『即身成仏義』 を著した事実は疑いようがない。ところが、その 『即身成仏義』 に、空海以外の人物が著したらしい、別のヴァージョンが存在するから、話はややこしくなる。それを、俗に 『異本即身成仏義』 と呼び、全部で六種も伝わる。さらに、事態を錯綜させているのは、第三本と称される 『異本即身成仏義』 の説く即身成仏論が、もとの 『即身成仏義』 のそれよりも、内容豊富なことであり、空海以降、真言密教では、この 『異本即身成仏義』 第三本の即身成仏論が一宗のスタンダードになってきたことだ。
『異本即身成仏義』 に繰り広げられる論を、三種即身成仏という。
そこでは、まず、即身成仏という、ひと連なりの熟語に三つの訓に方が与えられ、次いでその一つ一つに異なる成仏の名が付されると共に、密教特有の煩瑣とも映る教理の対応がもくろまれる。

即ち身成れる仏・・・・・理具成仏・・・・・体
身に即して仏に成る・・・・加持成仏・・・・相
即 (すみや) かに身、仏と成る・・・・顕得成仏・・・・用

「即ち身成れる仏」 と訓む理具成仏とは、 「一切の衆生の身体には、地・水・火・風・空・識の六大体大がおのずから蔵されるのをはじめ、例の四種の曼荼羅の働きを受けつつ、身・口・意の三密にも応じている故に、父母より生まれ出でた身のままで、すでにホトケになっているという立場である。
しかし、理具成仏が真実ではあっても、現実の世界では、衆生は本来の清浄な状態をとうてい保ち得ず、煩悩のほむらに焼かれ、無明の闇に迷う哀れな存在でしかない。したがって、ここに本来の清浄な状態に回帰すべく、手に印を結び、口に真言を誦しつつ、意 (心) は霊妙なる境地に入って、ホトケと融合し一体化する、いわゆる三密加持の必然が出てくる。これが、 「身に即して仏になる」 と訓む加持成仏の立場である。
だが、その加持成仏といえども、いったん三密加持の霊境から出てしまえば、途端にもとの煩悩や無明が支配する世界に立ち戻らざるを得ない。これではもとに木阿弥になってしまうが、それにもめげず、三密加持を常に行じているうちに、日常の行住坐臥ことごとくホトケを現じ、生ける身体そのままでホトケの智慧と行動を顕得し得る、つまり体現し得ることになる、と断ずるのが 「即 (すみや) かに身、仏と成る」 と訓む顕得成仏の立場である。

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