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なるほど加持という言葉も、また祈祷という言葉も、密教の行法の中では用いられる。加持には人間や物質に特別な影響を及ぼし得る、霊妙な力があるとみなされてきたことも事実だ。空海が、顕密の相違をことあげして、例えば顕教は病気の見立てのみに留まるが、密教は実際に薬を調合して病人を治すことが出来る、よ述べた時、彼の脳裏にあったのは、おそらく、加持の霊力だったに違いない。そして、心を込めて、神仏に祈り、その加護を求める祈祷は、密教にあっては、第一義的には悟りを成就するための行為として、第二義的には世俗の願望を適える為の行為として、存在価値が認められていた。けれども、加持祈祷とつなげられて用いられることは、絶えてなかった。多分、密教に対して、もっぱら呪術的な機能ばかりがもてはやされる事態に陥って後、外部において、この言葉が創作され導入されたのであろう。
ところで、気を付けなければならないのは、加持によって来る方向である。それは、あくまでホトケの側から、衆生に向けられるのであって、衆生は加持される、いわば受身の立場なのである。なぜならば、加持とは、ホトケが迷える衆生を守護し導くために、慈悲の心から、不可思議なる力を行使して、超自然的な現象を可能ならしめることだから。しかし、ひとたびホトケの加持の力が衆生に向けて発せられると、たちまちにして今度は衆生自身が自ら加持の主体となって、己の三密を加持することになる。だから加持がホトケの側からまず発せられる点では、加持は絶対他力的であるが、衆生が自ら加持の主体となる点では、加持は絶対自力的である。この絶対他力即絶対自力、自他不二とみなすところは、密教の骨髄と言ってよい。
衆生とホトケの、この関係について、空海はその著書と伝えられる 『秘蔵記』 に、
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