空 海 を 知 る キ ー ワ ー ド
監修:山折哲雄 エッセイ:上山春平 解説文:正木 昇 『空海の世界』 佼成出版社 ヨリ


 

三 密 加 持 其の二

なるほど加持という言葉も、また祈祷という言葉も、密教の行法の中では用いられる。加持には人間や物質に特別な影響を及ぼし得る、霊妙な力があるとみなされてきたことも事実だ。空海が、顕密の相違をことあげして、例えば顕教は病気の見立てのみに留まるが、密教は実際に薬を調合して病人を治すことが出来る、よ述べた時、彼の脳裏にあったのは、おそらく、加持の霊力だったに違いない。そして、心を込めて、神仏に祈り、その加護を求める祈祷は、密教にあっては、第一義的には悟りを成就するための行為として、第二義的には世俗の願望を適える為の行為として、存在価値が認められていた。けれども、加持祈祷とつなげられて用いられることは、絶えてなかった。多分、密教に対して、もっぱら呪術的な機能ばかりがもてはやされる事態に陥って後、外部において、この言葉が創作され導入されたのであろう。
ところで、気を付けなければならないのは、加持によって来る方向である。それは、あくまでホトケの側から、衆生に向けられるのであって、衆生は加持される、いわば受身の立場なのである。なぜならば、加持とは、ホトケが迷える衆生を守護し導くために、慈悲の心から、不可思議なる力を行使して、超自然的な現象を可能ならしめることだから。しかし、ひとたびホトケの加持の力が衆生に向けて発せられると、たちまちにして今度は衆生自身が自ら加持の主体となって、己の三密を加持することになる。だから加持がホトケの側からまず発せられる点では、加持は絶対他力的であるが、衆生が自ら加持の主体となる点では、加持は絶対自力的である。この絶対他力即絶対自力、自他不二とみなすところは、密教の骨髄と言ってよい。
衆生とホトケの、この関係について、空海はその著書と伝えられる 『秘蔵記』 に、

「いわゆる吾は遍法界の身なり。諸仏も遍法界の身なり。吾が身をもって諸仏の身に入るれば、吾れ諸仏に帰命す。諸仏の身をもって吾が身に入るれば、諸仏、我を摂護す・・・・」
としたためている。
では、三密加持を現代的な眼が眺める時、それは、どんなカテゴリーに入る修行なのであろうか。私は、三密加持とは、畢竟、瞑想法に他ならないと思う。伝統的な密教の用語なら、観法ないし瑜伽である。事実、三密瑜伽とも称する。しかも、その瞑想法は瞬時にして、大乗仏教が三劫もかけ、やっと達し得るほどの功徳に匹敵する不可思議な効能をもつ、と密教は主張する。その実際については、次項に譲ろう。
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