空 海 を 知 る キ ー ワ ー ド
監修:山折哲雄 エッセイ:上山春平 解説文:正木 昇 『空海の世界』 佼成出版社 ヨリ


 

曼 荼 羅 其の一

密教という言葉から連想されるものを何か一つ、と質問がなされたとしtら、多くの人々は曼荼羅を挙げるのではないか。それほど、この曼荼羅なる言葉は人口に膾炙している。矩形に、あるいは円形に、幾何学的に仕切られた平面に、絢爛たる色彩が一定の秩序を保って乱舞する神秘的な宗教絵画。それが曼荼羅のイメージであろう。
果ては道具曼荼羅とか、花曼荼羅とか、宗教的な存在であるはずの曼荼羅からは遠いかのような用例すら、まま見受ける。およそ、多種多様な、それでいて個々の要素が全体として何らかの意味を構成しているかに映るのも、それらすべてに曼荼羅の語が冠せられている。この、一見、全く出鱈目のような言葉の使い方は、しかし、曼荼羅の本質からいって、さして外れたものではない。なぜなら、密教のいう曼荼羅とは、本来、大宇宙の営みことごとくを指しているからだ。
密教に立場からすると、大宇宙そのものが、真理それ自体にほかならぬ大日如来の自己顕現である以上、すべてはあるがままに曼荼羅なのだ、と言ってよい。これを密教者によっては、 「自性の曼荼羅」 と呼ぶ。対して、通常言われるところの曼荼羅を、改めて宇宙の真理を形に表象する故に、 「形像の曼荼羅」 と呼ぶことがある。そして、これら二つの曼荼羅の中間に、ホトケの属性にかかわる光とか形態など抽象的な原理を、心中に具体化して観想する、現代流に表現すれば、イメージ操作する段階の曼荼羅が想定できる。事実そうした曼荼羅があった。 「観想の曼荼羅」 である。
歴史的な観点からすれば、自性の曼荼羅が先行し、次いで観想曼荼羅、最後に形像曼荼羅が登場してきたらしい。つまり、大宇宙の営みがホトケの顕現にほかならないとの認識が自性の曼荼羅を産み出し、それを修行の中に組み入れ、自覚的な観想の対象となすに至って観想の曼荼羅が現われ、それをさらに煮詰め組織的に整理して視覚化したのが形像の曼荼羅だったと思われるのである。しかも、いったん形像の曼荼羅が誕生してしまうと、視覚という人間の五感のうち、最も強力な感覚に訴えるだけに、その威力は抜群で、曼荼羅と言えば、もっぱらこの形像の曼荼羅を指すことになった。
したがって、ここでも以下、曼荼羅としたためた場合、それは形像の曼荼羅のことを言っているのだ、と思っていただいてよい。ところで、言葉の原義を訪ねれば、曼荼羅とはサンスクリット語のマンダラであり、かうこの語はマンダとラよに分けられる。マンダは円・本質・神髄などを意味し、ラは所有を意味する接尾辞である。したがって、マンダラとは、本質を所有せるもの、となる。古来、中国ならびに日本の密教者たちは、マンダラを 「輪円具足」 と漢訳してきた。

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