空 海 の 名 句 (抜 粋)
監修:山折哲雄 エッセイ:上山春平 解説文:正木 昇 『空海の世界』 佼成出版社 ヨリ


 

(其の十二) 五 大 に 皆 響 き あ り


五大に皆響きあり。

十界にごん を具す。

じん 悉く文字なり。

法身ほつしん は是れ実相なり。
五大皆有響。

十界具言語。

六塵悉文字。

法身是実相。
( 『声字実相義』 )

地・水・火・風・空の五大からなる森羅万象には、皆、心理を語る響きがあり、地獄・餓鬼・修羅・人・天・声聞・緑覚・菩薩・仏の十界すべてに真理を語る言語がある。
色・声・香・味・触・法の六塵、すなわち私たちの感覚によって把握される認識の対象は悉く真理を語る文字であり、究極のホトケたる大日如来とは、この世界の、あるがままの姿に他ならない。

密教を、俗に 「ことばの宗教」 ともいう。もう少し慎重に形容すれば、密教の根幹には、一種特有の言語哲学があると言うべきであろう。
普通、どの宗教でも、究極の真理は言葉では語り得ないと主張する。これは、別に洋の東西、歴史の深浅を問わない。仏教でも、通常はやはり、そう強調される。一般に宗教で真理と言われるものは、厳しい修業の果てに獲得されることが多く、またいわゆる神秘体験の中で獲得されることが多いので、言葉に代表される日常的な知性の次元とは、明確に一線を画すと述べられる場合がほとんどである。要するに、真理は言葉を絶対的に超えている。一例を挙げれば、禅で 「不立文字」 とか、 「言語道断」 というがごとくである。
これに対して、密教は真理は言語によって語る得ると説く。他の仏教にもまして神秘体験を重視するとみなされがちな密教が、そうした主張すること自体、門外漢から見れば、一個の矛盾と映る。さらに、この名句の別項でも引いたように、言葉や文字は所詮、糟粕だ、瓦礫だと、いささか極端な表現まで使って、それらによる真理の把握を否定した空海ではなかったか。
しかし、密教が言う意味での、真理を語る言葉とは、私たちが日常使っている言葉なのではない。それは真理を語るだけの力を備えた言葉なのである。そして、もし、その力に満ちた言葉を理解できるだけの段階に達したなら、この世界がおのずから真理を語り続けて倦まないことを悟るはずだ、と空海は述べる。
では、その真理を語るに足る言葉とは、一体どんなものなのか。
空海に言わせれば、それはこの世界を構成する森羅万象の悉くなのだ。つまり、存在するものすべてが、真理を語る言葉であり文字に他ならないというのである。
普通、五大は世界を構成する根源的な要素とみなされている。要素といっても、地・水・火・風・空の文字が表現している、例えば地なら地そのものを指しているわけではなく、むしろ地なら確固として動かないものといったように、その文字によって象徴される性質を持つもの、と考えた方が正しい。
しかも、真言密教の理論からすると、五大とはそのままに大いなる五体のホトケたちと彼らを取り巻く無慮無数のホトケたちの集合体以外の何ものでもないから、こうした真理を語り続ける世界全体そのものが、究極のホトケたる大日如来以外の何ものでもないことになる。
まさに、ここに真言密教の独断場があると考えてあやまたない。

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