空 海 の 名 句 (抜 粋)
監修:山折哲雄 エッセイ:上山春平 解説文:正木 昇 『空海の世界』 佼成出版社 ヨリ


 

(其の十三) 名の根本は法身を根源と為す


名の根本は法身を根源と為す。

彼より しゅつ してようや く転じて

ごん となる
名之根本法身為根源。

從彼流出稍転

為世流布言而已。
( 『声字実相義』 )

およそ言葉の根本はことごとく永遠の真理たる大日如来から発する。
大日如来という絶対的な原点から流出して、その次元を次第次第に下降させてゆき、ついには私たち人間が日常用いている言葉となる。

世界の森羅万象がすべての真理を語る言葉なのだ。そう喝破した空海は、引き続き、今度は視点を変じて、私たちが日常用いている言葉を じょう に乗せる。前項で述べたように、あろとあらゆる存在や、私たちの感覚の認識対象が真理を語り得るものなら、日常的に使われている、いわゆる言葉とは何なのか。この疑問が浮かんでくるのは、自然の成り行きであろう。
空海は最澄との 『理趣釈経』 の貸借をめぐる一件では、言葉は糟粕だ言葉は瓦礫だと極端なまでの形容をして、言葉をおとしめている。いわく、真理は心から心へと伝えるのみ。この調子でゆくと、大乗仏教がこぞって、真理把握の為には言葉が邪魔となると主張していたのと同じ結論が出てきそうに見える。
では、日常的な言葉がすべて無意味で有害なのだろうか。いや、必ずしもそうではない。空海は答える。なぜなら、私たちが使っている言葉もまた、大日如来という最高の真理それ自体に根源を持つからだ、と、従って、使い方によっては、 「世流布」 の言葉も心理の一端を語るに値する。
仏教哲学の歴史、ことに大乗仏教哲学の歴史は、煎じ詰めれば、言葉の否定にきわまる。外界に存在するものは皆、言葉によって びおこされた幻影であるのに、人々はその幻影が実在するものと思い込んで執着する故に、悟りを得られず迷いの道に踏みまどうと言うのである。要するに、この世のせべては言葉が生み出した妄想に過ぎない、だから、言葉は無意味にして有害なのだ、と大乗仏教のほとんどが強調する。
ところが、密教はその考えをとらない。この世のすべては窮境の真理たる大日如来がそうした姿で自らを顕現させたものに他ならず、当然ながら、最高度の実在性が保証される。つまり、この世は、そのまま大日如来の言葉なのである。この大日如来のありようを、密教は 「法身説法」 というテーゼで提示する。時に密教は 「死の宗教」 ではなく、 「生の宗教」 だと呼ばれるが、その理由の一半はこのような世界の実在に対する説教的な肯定にあるのかもしれない。
以上の事柄を空海は、顕教と密教の違いを論じた著書 『べん 顕密けんみつ きょう ろん 』 において 「果分可説」 なるタームを引いて解き明かす。 「果分」 とはホトケの悟りという絶対的な領域を指し、それ故、 「果分可説」 とは、ホトケの悟りすら言葉によって語り得るとの意味を持つ。もちろん、ここでいわれている言葉とは日常的な言葉そのものを指しているわけではなく、真理を語るにふさわしい言葉、すなわち 「真言」 がそれだと述べているのだが、その真言にしても大日如来から発している点では、日常的な言葉と同じなのである。この論理を逆にたどってゆくと、大日如来の言葉にもすでに人間的な何ものかが宿っていることになる。この真理と人間との通底も、密教が 「生の宗教」 と呼ばれるゆえんの一つであろう。
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