空 海 の 名 句 (抜 粋)
監修:山折哲雄 エッセイ:上山春平 解説文:正木 昇 『空海の世界』 佼成出版社 ヨリ


 

(其の十四) 大 真 言 と は


大真言とは

きょう 法身ほつしん 所説の真言なり
大真言者

究竟法身所説真言。
( 『秘密曼荼羅十住心論』 巻第十)

至上至高の真言とは、絶対的な真言それ自体たる大日如来が説くところの真言である。

空海の主著一冊を選ぶのであれば、 『秘密曼荼羅十住心論』 を挙げることに異論はないに違いない。この晩年の著作は、畜生にも等しい最下位から、密教に到達した最上位までの心の段階を、十に分かって論じたもの。
密教には、心の分析とでも称すべき領域にことのはか深い関心が感じられる。例えば 『秘密曼荼羅十住心論』 にいう 「十住心」 の典拠である 『大日経』 冒頭の 「住心品」 は、そのタイトルが示すように 「さまざまの心の分析」 を主な論題としていて、そこでは 「貪心 (むさぼる心)」 からはじまって、 「阿修羅心」 や 「狸心 (ねこの心)」 というふうに、各種各様の心、計六十心の分析がはかられている。こうした心の分析がたの仏教で全然なかったとは言わないが、これほど徹底したものは例を見ない。
さて、その心の段階論において、最も高いところに達した者が密教者のそれで、 「秘密しょう ごん しん 」 と称されるが、そこでもまた真言の問題、すなわち真理を語るに足る言葉の問題が、 くことなく論じられる。かほどに密教では言葉を重要視するのである。
そもそも密教以外の大乗仏教では、絶対的な真理そのものの仏格化たる法身は、説法しないという原則を採用している。例えば、密教の大日如来と極めて近しい関係にある 『 ごん きょう 』 の主、毘盧遮那如来。彼のサンスクリット名はヴァイローチャナであるが、この名前の前に 「大いなる」 を意味するマハーをつけてマハーヴァイローチャナ (大いなる光のホトケ) になると、これが大日如来になる。したがって、このホトケもまた法身に他ならないが、 『華厳経』 でホトケは一切説法をせず、真理の開顕はボサツたちに任せて、彼自身は常に沈黙を守っている。この事実は、真理は言葉では語れないとする大乗仏教一般の原則に対応しているのである。
前項でみたごとく、大日如来の説法は日常的な言葉そのものではない。といって、日常的な言葉と全く無縁なものでもない。あえて現代哲学の用語を使うとすれば、大日如来の言葉は 「メタの言葉」 だと言えなくもない。形而上学、つまりメタフィジックの 「メタ」 を冠した言葉である。日本語に直せば、 「超次元的な言葉」 とでも言おうか。
さらに、ここからが密教の密教たるゆえんと言ってよいが、その超次元的な言葉とも呼ぶべき大日如来の言葉も煎じ詰めてゆけば、 「阿」 という一字に表現されるa音にすべてしゅう れん してしまう。反対に考えれば、この 「阿」 という一字から、ありとあらゆる言葉が流出してくることになる。その意味からすると、 「阿=a」 はまさしく言葉の母胎に相当する。
ここに引用した 「大真言とは究竟法身所説の真言なり」 の 「真言」 とは、いわゆる呪的な機能を?んだ言葉ではなく、大日如来の言葉そのものであり、密教が用いるタームというのなら、 「秘密語」 に該当する。この秘密語もまた、結局は 「阿=a」 にきわまり、 「阿=a」 に秘められた究極の意味を読み解くことが出来るならば、その人は宇宙永遠の真理を獲得して、悟りを得ることになるのであえる。
Next