空 海 の 名 句 (抜 粋)
監修:山折哲雄 エッセイ:上山春平 解説文:正木 昇 『空海の世界』 佼成出版社 ヨリ


 

(其の十五) 真言とは不思議なものである


真言は不思議なり。
観誦 すれば無明を除く。
一字 に千理を含み。
即心に法如ほうにょ を証す。
真言不思議。

観誦無明除。

一字含千理。

即心証法如。
( 『般若心経秘鍵』 )

真言とは不思議なものである。心に思い浮かべつつ唱えれば、闇のごとき迷いを払ってくれる。
たった一つの文字にあまたの真理を包含し、生けとし生けるこの身体のままで、ホトケの境地に達することができる。

空海は、おもしろい試みとして、顕教の経典の幾つかに、彼独自の密教的な解釈を加えている。空海に言わせれば、顕教の経典にも実は深い意味があるのだが、それが巧みに隠されているので、普通の仏教者にはその真意を究められない。密教者の深い智慧を持って読み解いた時、初めて経典は己の心理を開示するというのである。
こうした理屈のもとに、彼は、例えばこの 『般若はんにゃ 心経しんぎょう 』 に、密教流の解釈を施している。この種の顕教経典に対する解釈で、最も注意すべきは、 『法華経釈』 であろう。つまりこともあろうに長年のライバルであった最澄が自分の思想のすべてがそこにあると考えていた 『法華経』 に、手を染めたのである。
そして、 『法華経』 も、案外悪くないといった態度すら見せているのである。もっとも、それは最澄の死後のことだから、最澄が知るよしもないあが、もし、この事実を最澄が耳にしたとしたら、果たしてどんな反応を示したか、興味津々たるものがある。
さて、この詩句は、真言陀羅尼の本質を語ったものとしては出色の出来とされる。もともと真言と陀羅尼だらに とは、いささか意味の違うものであったが、インドで密教が勃興した頃には、ほぼ同じものと考えられていたらしい。多少、仔細を述べれば、日本の密教では、真言の長いものが陀羅尼であり、陀羅尼の短いものが真言であると思ってかまわない。
やや詳しく説けば、真言はインドの言葉、サンスクリットではマントラといい、神々に対する賛歌であったから、もとより日常の言葉とは次元を異にし、原義としては 「思考の器」 を意味する。陀羅尼は、同じくダーラニーといい、 「精神の統一集中」 の意味であって、瞑想に入る際に活用される行法の一つであった。この真言・陀羅尼の両者には共通する属性がある。それは低い声による誦唱の繰り返し、つまり反復である。この共通性が、真言と陀羅尼が混同された主因とみなしてよい。
真言あるいは陀羅尼には、三つの機能があると考えられていた。その一つは記憶の秘密を開示する力、その二は呪術的な、ないしは超自然的な力。その三は、大乗仏教の根幹とも言うべき 『空性』 を行者に悟らしめる力である。これらは、いずれも言葉に対する古代インドの、執拗きわまりない追求から生み出されたもので、あえて付会すれば一種の 「言霊ことだま 」 論のカテゴリーに入る。
このうち、若き日の空海が一沙門の導きによって修得したと伝えられる 「虚空蔵求聞持法」 は、一の機能に該当する。そして、ここに引いた 「観誦無明除。 一字含千理、 即心証法如」 する 「不思議な真言」 とは三の機能に当たる。二つ目の呪術的な力については、ここでは言及されていないが、このマジカルな力を駆使して空海が密教の威力を天下に知らしめたことは、今さらに指摘するに及ばないだろう。
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