空海が顕教の経典に、独自の密教的な立場から注釈を施している事実は、すでに触れた。その際、彼が自らの注釈の正当性を主張するのは、顕教の経典にも、通常行われているのとは次元を異にした密教の真意がひそんでいるのだが、惜しいかな、顕教の立場に立つ仏教者の目には、それが見えてこないといった論理にのってってであった。
この空海の論理は、顕教の側からすれば、全く以て余計なお節介以外の何ものでもないだろうし、実際に空海が施した注釈そのものも、ややもすれば、かなり強引な付会やら言葉の遊びやらが目に付くのは確かである。
特定のイデオロギーを信奉する政治や宗教勢力が、過去の偉人たちの残した片言
隻句
を引いてきて勝手に解釈し、己の論拠としたり権威付けにしたりする類は、現代の私たちにも見慣れた光景で、空海の事例もそのその範疇
に入れられてしまう危険性があるが、しかし、空海の場合、そうしたものとは明かに一線を画していると、私は思う。
その理由を一、二あげれば、先ず一つは、普通、そうした人々の行動が、自己の利益を優先するが故に右顧
左眄
のご都合主義に陥るのに対して、空海の態度は密教者としての使命感を背景に、終始一貫していることにある。
もう一つの理由は、すべての存在は絶対的な真理の顕現である大日如来の言葉にほかならないという密教特有の考え方からすれば、人間行為全体が、例えば学問も芸術も当然ながら大日如来の言葉を何らかの形で伝えているに相違なく、顕教の経典とてもその例に漏れないという確信が、空海にはあったとみなすことにある。
空海にしてみれば、顕教を奉ずる人々の意見など、ほんの表面をなぜるだけのものでしかなく、まどろっこしくてとても我慢できない体のものだったに違いない。顕教の経典にも、せっかく深い智慧が秘匿
されているのに、それを解読する能力に欠けるばかりに、ホトケの真実がないがしろにされている。こんな馬鹿なことがあってよいものか。そう空海は思ったかもしれない。
「此一一・・・・」 以下の文句は、 「般若心経」 の正式なタイトル 『仏説魔訶般若波羅密多心経』
を、もとのサンスクリットの題名に戻して、その意味を論じた部分に出てくる。紙幅の都合上、その詳細に触れるわけにはゆかないが、空海の最終的な見解としては、このタイトルがすなわち大般若波羅密多菩薩なる菩薩の名であるという。あらゆる存在を仏格化するのは密教に独特の性格であり、経典そのものも、ご多分に漏れず、仏格化されてしまう。密教の仏格化とは、単にある存在をホトケになぞらえて、それでおしまいというわけではない。仏格化された存在は、ホトケの慈愛を起動力として、主体的な活動を開始するのである。
「表法性深号」 に引き続き、空海は 「即是喩」 と述べる。かくて 『般若心経』 とは真理顕現の目的に活動し続ける生ける比喩、つまり大日如来の発し続けるメッセージを体現したホトケであることになる。
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