霊・肉の一致。これこそ密教が、難解極まりない千万言を費やして語ろうとした真理であると、私は思う。例の
「即身成仏」 も、この原理から必然的に生まれてくる。
真理が心に宿るとする考え方は、世界の諸宗教に広く見られる。しかしその心もまた肉体に宿る、いや宿らざるを得ないと言う考え方、心の所在する場としての肉体を不可欠の存在とみなす考え方は、すこぶる稀といってよい。大概の宗教は、所詮すべては心の問題と断じて、それで済ましている。密教以外の仏教諸派も、この点はほぼ等しい。
もっとも、密教以外の宗教者たちが、心の存在する場たる肉体について全然思い至らなかったわけではない。なぜなら、いずれの宗教にも、それなりの修業が用意されているが、この修行なる営みは、肉体の変容が心の変容を準備し受け容れるための、欠くべからざる条件とする認識から出発しているからだ。つまり修業とは、自らの肉体を心理の顕現する場とするための行為に他なたなかったのである。殊にこの傾向は、神秘主義を標榜する宗教に非常に顕著と言ってかまわない。
ただし、密教ほど、霊肉の関係にまつわる深い考察と、其れの基づく実践に到達した例は極めて少ないのではないか。キリスト教やユダヤ教をはじめとするセム系の宗教は霊肉の分離を説く二元論を採用したから、概して肉体の考察に冷淡だったし、中国の道教にしても密教ほど緻密な段階には達していない。ちなみに道教の肉体論には、密教の影響が実に濃い。私が最近、知り得た範囲では、現在、日本でもブームになっている気功なども、その中核にはチベット密教の霊肉論があるようだ。さらに、イスラーム学の権威である井筒敏彦のお話によると、イラン系のイスラーム神秘主義で営まれる
「ズィクル修行」 は、密教の三密加持と実によく似た内容を持つが、それもそのはずで、おそらくこのズィクル修行は、インド起源の密教的なヨーガの技法の影響下に成立した可能性が高いらしい。
さて、ここらあたりで話を元に戻そう。 「夫れ」 以下の文句は 『般若心経秘鍵』
の劈頭、まず示される祈請の偈頌
(詩) に就いて、仏教の大網を述べたくだりに登場してくる。
『般若心経』 は、多分、ありとあらゆる仏教経典のうちでも、最も人口に膾炙
したものだろうが、それを密教の立場から論じた書物の最初の部分に、永遠なる真理は肉体を離れては存在しないと断言すること自体、全く思い切った行為で、空海の空海たるゆえんとも映る。この文句を、空海にほときわ特徴的な美文の対句表現とみなし、仏教一般の心得をうたったまでで、特別な意味はないと考えることもいできるかも知れないが、しかし、
「身を棄てて何くんか求めん」 という言葉には、あえて深読みをしてみたい誘惑にかられる。その理由は、以上にしたためた如くである。
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