空海の訪れた頃の中国では、国家の安泰をはかる密教修法が宮中で営まれており、その霊験あらたかなることには定評があった。空海はそれにならって日本でも宮中に密教修法の場である真言院を構え、毎年正月、そこで護国の秘法を行おうと考えた。とはいっても、正月には伝統的な神道儀礼が確固としてあり、それを変えるわけにはいかない。それ故、その神道儀礼をすべて済ませた後の日程に、自分が請来した密教修法を組み込もうと図ったのである。
ここにあげた文章は、その件に関する承和元年 (834) 十二月付、奏上文の一部。空海の願いは、すぐ聞き届けられたらしく、以後、応仁の乱と明治維新の混乱による中絶のほかは、今日に至るまで、東寺において営々と修せられてきた。ちなみに
「後
七日
修法
」 というのは、神道儀礼の終わる八日から十四日までの間に営まれる故に、こう呼ばれる。
もともと宮中ででは以前から、御
斎
会
と称して、護国経典としての評価の高かった 『金光明最勝王経』 に依拠した法会が催されていた。しかし、空海は従来の顕教の立場からの方式では、せっかくの
『金光
明
最
勝
王
経
』 も宝の持ち腐れ、密教の立場から修法してこそ、この経の功徳を円満成就できると主張したのである。
この修法の実際は、空海が恵果から継承した密教法具ならびに法衣を用いて行われ、最終日には香水により、天皇の身体を清める秘法が修せられた。これを玉体加持という。
さて、この上奏文の中で、空海は顕教と密教の違いについて、相当に露骨な表現をしている。慎重に世の中の状況を見守ってきた空海が、ついに鋭い牙をむきだしにしたとも見える。顕教は、彼に言わせれば、所詮、単なる理屈に過ぎない。病人を前にしても、その病状をあれこれ詮索し、薬の見立てをするだけで、それ以上には進まない。つまり、病気を治すための、具体的かつ有効な手段を、顕教は持たないと言うのである。
ここで使われている病気の譬えが、人間の病気のとどまらず、国家の病気、すなわち反乱とか天災などをも含んでいることは、改めて指摘するまでもあるまい。
空海にすれば、大切極まりない国家の安危を、理屈ばかりで何の手段も持たない顕教ごときにまかせておくなど、あぶなっかしくて見ていられない。
対して、密教は実際に役立つ方法を会得している。それが、ここに述べられた陀羅尼であり、陀羅尼を駆使した修法なのである。陀羅尼とは、不思議な、超自然的な力を秘めた言葉を意味する。
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