空海以来、 『理趣経』 ほど物議をかもし続けてきた仏教経典もまたとあるまい。その理由は、一にかかって、この経典が人間の性欲をも菩薩の境地として積極的に肯定したからである。
世界史上、大概の宗教思想は性欲を、人間の持つ様々な欲望のうちでもとりわけ熾烈なだけに、悪の最たるもの、最も否定すべき存在とみなしてきた。その点、仏教も同断である。しかし、密教だけは性欲を否定しなかった。より性格に記せば、八世紀から十二世紀にかけて、インド亜大陸で流行したタントリズムと呼ばれる一群の思想だけが、性欲を否定せず、そてどころか性欲を悟りへと至る最重要の道であると考えたと言うべきであろう。このタントリズムには仏教タントリズムたる密教と、ヒンドゥタントリズムの二つがあり、実際問題としては、この二つを明確に区別するのは難しいぐらい、両者の関係は錯綜している。
『理趣経』 もタントリズムの激流の最中
から生まれてきた密教経典である。その前身は経題を 『般若理趣経』 とも称するところからわかるように、ありとあらゆる存在が空なることを説く般若経典に属する。しかし、この
『理趣経』 は、空海の師匠にあたる恵果の、さらに師匠にあたる不空によってサンスクリット語から漢訳されたが、その正式なタイトルを
『大楽金剛不空真実三麻耶経般若波羅密多理趣品』 といい、 「おおいなる楽はダイヤモンドのように永遠で、空しからずかつ真実であるというホトケの境地を説く経典」
との意味を持つ。つまり空を説く般若経典に属するとはいっても、 『理趣経』 は 「不空」 を説くのである。
これをどう考えたらよいのか。一般に 「空」 と名がつくと、どうしても否定的な感じが強くなってしまう。けれども、
「空」 とは単純な否定ではないのだ。 「空」 には、もともと無的な面と有的な面との両面があり、その両者の緊張関係こそが
「空」 の示すところとみなした方がよい。あるいは一歩進んで、むしろ存在のあり方、すなわち 「有」 が 「空」
であると解釈した方が的を射ている。だから、 「空」 が 「不空」 であり得る。
では一体何が 「不空」 なのか。答えは 「大楽」 が、である。とすれば、その 「空しからざる大いなる楽」
とは何か。それこそ、まさにホトケの境地なのである。これに関しては、いささか説明が必要だろう。仏教以前から、インドの宗教思想にはほぼ共通する了解事項があった。それは悟りの境地には、つごう三つの性質があるとの認識である。悟りには、存在性・精神性・快楽性の三つが必ず伴うとみなされていたのだ。ここに、ホトケの境地に大いなる楽が存在する理由がある。
タントリズムの斬新な点は、このホトケの境地に大いなる楽と、性欲をはじめとする人間の欲望を、共に本来清浄なるものとして同質視し、あまつさえ性の行為そのものを悟りの獲得に不可欠と断じたところにある。タントリズムを奉ずる人々は、煩悩に燃え上がる肉の隘路
にこそ、聖性へと至る道が隠されていると信じた。
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