空海が 『理趣経』 を封印したのは、性をめぐる叙述の故だったであろうと述べた。実は封印の原因にもう一つあったと、私は思う。それは、この
「降伏の法門」 の内容である。
もともと仏教、特に大乗仏教には、善悪是非を超越した彼方に真理が存在するといった思想が濃厚にみられる。別の言葉を用いるなら、善悪是非にこだわる心が、つまり分別する心が迷いを生みやすいとみなされたといってもかまわない。もひろん、こうした論理は日常的な知の次元をはるかに超えた、いわば絶対知の領域の話であるが、とかくして短絡した理解から、日常的な次元にまでこの論理が持ち込まれると、倫理観の喪失にもつながりかねず、結果的に悪の肯定に陥らないとも限らない。
密教には、とりわけその傾向が強い。時には、ことさら日常的な感覚と全く逆の行為に出て、ごく普通の倫理観を持つ人々を挑発するような様相に至る場合すら見られる。例えば、
「五肉・五甘露」 である。五肉・五甘露とは、直接には肉・穀物・大小便・性交などを指し、翻って通常は食してはならぬものを食し、交わってはならぬものと交わる行為をいう。そこに通底する理論は、普通の人々が迷いの原因となす、その同じ行為によって、密教者は世界のありのままの姿、すなわち真理を把握するが故に、反対に悟りを得られるというものだ。
この論理は、極めて大きな危険を孕んでいる。強烈な菩提心を持たない限り、単に奇をてらうことにもなりかねないし、さらには己の世俗的な快楽の追及に格好の理屈をつけてくれる結果をもたらすからである。
わけても 『理趣経』 の 「降伏の法門」 の文句は非常にきわどい。生けとし生ける者すべてを殺してしまっても地獄に陥らないどころか、その行為が逆にこの上ない悟りに導いてくれると言うのだから、この文句に空海が危惧を抱いたとしても不思議ではない。彼の脳裏に、日本のように仏教の神髄にはまだ到底及ばない段階の国において、この文句が独り歩きしたら、とんでもない事態になるとの思いが浮かばなかっただろうか。
空海よりこの方、 『理趣経』 のこの文句に関しては、様々な解釈が行われてきた。大概のそれは、この文句は、あえてこんな極端な表現をすることによって、逆説的にそうした行為の危険性を喚起したのだという程度にとどまる。しかし、最近の密教史の研究は、この文句のつながり方が順説的である事実を明かにしつつある。つまり、密教者は真理の法を継承する際、決して欠かせない師承たる阿闍利のほかは、全ての人々を殺害してもかまわない。それはホトケによって許されている。だが・・・・。
このホトケの許しと 「だが」 の間に、人間の闇を切り裂く密教の力がある。
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