当代最高の文章家という評判のおかげで、空海のところにはあちこちから文章起草の依頼があった。この頃の支配層に属する人々の意識から推せば、彼には世界文明の伝達者としての側面が濃く、空海の書く華麗な文章にも、人々は最新の文明の香を嗅いたであろう。空海にしたところで、人の世の現実を知り尽くし、それはそれとして対応できるだけの度量は充分以上に持ち合わせていたから、これも処世のひとこまと考えて、結構快く応じていたらしい。見方によると密教ですらも、その文明の最先端領域として受容された趣がないとは言えない。
これも、天長皇帝、すなわち淳
和
天皇とは異母兄弟の関係にあった伊
予
親王の追善供養が高
市
郡橘 (現在の奈良県橿原市) にあった久米寺において営まれるにあたり、依頼を受けてしたためた願文にほかならない。
ところで問題は、この伊予親王なる人物である。彼は、淳和天皇の兄弟ということは桓武天皇の皇子の一人だから、当然ながら皇位継承者の資格をもっていた。このことが伊予親王の生涯に暗い影を落とす。父帝、桓武天皇自身、歴代の天皇の中でも抜群の力量を示した方ではあったものの、無実の弟、早
良
親王を死に追いやり、その思いが晩年の屈託を招いて、早良親王の怨念におびえながら亡くなった。その皇子たちも平城
・嵯峨・淳和と次々に天皇の位に就いたが、兄弟が三人も揃って皇位を継承したのも不自然ながら、いったんは弟に位を譲った平城天皇が復位のクーデターをたくらんで未遂に終わった薬
子
の乱が勃発するなど、その継承の経緯そのものにも不可解な点が多々あったと言わざるを得ない。
伊予親王もまた政争に巻き込まれ、罪なくして親王を廃された挙句、その役職だった中
務
卿
の地位も剥奪
されたうえに、その母ともども毒を仰いで非業の死を遂げねばならなかった。すでに伊予親王の無実は嵯峨天皇治世下の弘仁十年
(819) に認められ、親王の号と中務卿の役職も復されていたとはいえ、無実にもかかわらずに死に追い込まれた親王の無念さを思えば、その熾烈に違いない怨念に恐れを抱いた天皇以下の人々が、天長四年
(827) 、伊予親王の菩提を弔う目的で催した仏会のために、この願文は書かれたのであった。事実関係を考えれば、この願文が空海に依頼されたこと自体、ただその絢爛たる文体のみの故に彼が選ばれたのではなく、空海が発揮してくれるであろう強靭
な霊力に期待するところ大きかった故と想像しても、さして的を外れてはいまい。
こうした時代の状況を空海の側から眺めれば、己の信奉する密教を広める上で千載一遇の好機だったことは論を待たない。この願文も、例によって例の如く、対句や比喩を駆使した六朝風の文章で、その種の教養がないと、ただ単にレトリックが浮薄に舞うばかりで、一向に真に迫ってこない憾みがあるが、これはこれで当時の貴族たちにとっては、たまらない魅力であった。
ここに引用した文句の中で大切なのは 「心」 と 「性」 の二つの言葉である。これも、他の言葉と同様に、ただこの言葉を見ただけでは、意味がつかみずらい。ところが平初頭の仏教文化の薫陶を受けた人々は、空海がこう言うだけで、それが
「自
性
清
浄
心
」 と 「仏
性
」 を映していることを簡単に理解しtらしい。というより、多分 「自性清浄心」 にせよ 「仏性」 にせよ、当代の教養人にとっては最新流行の哲学用語であったに相違なく、それがわかることで得意になっていたと言った方が正確だろう。
しかも、この 「自性清浄心」 や 「仏性」 は密教にとっては、まさにキーワードにあたる。密教の立場からゆくと、私たちの心は本来清浄きわまりないのに、それに気付かず、またホトケとなる可能性も、あたかも胎児のごとく宿っているのに、それにも気付かない。ああ、悲しいかな。
この国の支配層を代表する人々が集う法会において、当時最も恐れられていた怨霊を鎮めるべく朗読される願文を美々しくしたためながら、さりげなく密教のキーワードをちりばめる空海。生ける権力の亡者たちを虜
にし、死して怨霊となり果てた者をも鎮圧するその生きざまこそ、空海に言わせれば、密教者の道だった。
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